2.20.2021

[theatre] Roman Tragedies (2007)

2月14日、日曜日の14:00-20:00、オランダのThe International Theater Amsterdamのストリーミングで見ました。

初演は2007年で、シェイクスピアのローマ悲劇三部作 - “Coriolanus” - “Julius Caesar” - “Antony and Cleopatra” を一編の作品のように流しで一挙上演するやつ。演出はIvo van Hove。シェイクスピアも演劇もそんなに詳しいとは言えないのだが見てみる。6時間のオンライン視聴というのがどんなもんかも含めて。

Ivo van Hove演出の舞台はこちらに来ていくつかライブで見ていて、ストリーミングだと先月1月10日にあったDavid Bowieの"Lazarus”も見ている。これ、感想を書くのを忘れていたがIvo van Hove作品としてはやや物足りなかったかも。”The Man Who Fell to Earth” (1976) の後日譚とか、Bowieの歌を配置するとかいろいろ制約もあったのかもしれないけど、スクリーンもひとつだしカメラは動くけど舞台も一方向だし、Bowieの多面性とその表裏にある孤独を見せるにはもっといろんなやり方があったのではないか、とか。

これまでに見たIvo van Hoveの舞台で圧巻だったのは2019年の6月にBarbicanで見たComédie-Françaiseの”The Damned (Les Damnés)”   - 『地獄に堕ちた勇者ども』で、今度の三部作はあれに近いのを感じた – 現代史劇/悲劇、でもあるというところも。

舞台は全体が大きなTVスタジオのような仕様になっていて、モニターが全方位で置かれていて、奥や両脇に音響やコンソールを見て操作するスタッフが常に控えてカメラを抱えてうろうろしていて、楽屋や控室のようなものもなくて着替えやメイクアップも同じ舞台上で、これらがリアルタイムで進行していくさまが画面にそのまま映り込んでいて、それを実況するニュースキャスターがいて、劇中にも”Breaking”のテロップが流れてきたりする。

歴史上の出来事をコスチュームから言葉遣いまで含めてステージの上に忠実に再現することの欺瞞、とまでは言わないが、それに伴う嘘っぽさやギャップに十分自覚的であること。それを言うならシェイクスピアが紀元前の出来事を劇作として悲劇として創作した時点で起こっていたのではないか、なのだが、それも含めて現代の劇として、「悲」劇として、現代の「アート」を見にきた「観客」の前にがんがんブロードキャストしまくること、そうやって放たれたいろんな矢が我々にどんなふうに刺さるのか、それはSNSやニュースが毎日のように突きつけてくる世界のひどいありさまとどれくらい近いのか同じなのか、などなど。このへんは彼の舞台を見ていつも思うこと。 現代演劇、というのは古典を扱っていてもこういうふうに見て見られてなんぼではないか、とか。

これと同じことを映画でやろうとしてもそんなにおもしろいものにはならない気がする。 全体を見渡すというときの「全体」が可変で、そこから自分で細部に分け入っていくのって、演劇ならではの楽しみ、なのではないか。

演目のサイトには開始時間00から分単位でのタイムテーブルがあって、その通りに進行していってセットチェンジ(この5分とか10分で数百年が経過していく)の時間になるとキャスターであるMCがここまでの進行状況やそれに対する周辺諸国や国内での反応 - 彼の支持率はxx%です - や今後の展望をニュースの形で伝え、xxxの暗殺まであとxxx分とか出たりする。劇中も背後のモニターには今の時代のニュース - トランプと北朝鮮とかメルケルとかオリンピックとか日本のアニメ? を流している。

登場人物はローマ時代の服装ではなくて、ふつうにシャープなスーツとかドレスを着ていて、彼らが議会、ではなくてリビングとか会議室のようなところで罵ったり組み合ったりキスしたり、そういうやりとりの中で政治が行われ - 後継が決まったり死んだり消えたりする。

悲劇なので最後は主人公が暗殺されて終わるのだが、ガラス板に挟まれた通路のような隙間(帝国のゲート、って言ってた)に殺される人が運ばれると、上から粗い粒度のモノクロ写真が撮られて、その固定ショットと共にご臨終(生年 - 没年の表示)。あーめん。 戦争のシーンはセットチェンジと並行していることが多くて、パーカッション奏者ひとりがいろんな太鼓をどしゃばしゃ叩きまくるだけ。戦争というよりは演説とか人気の煽り煽られで動いていく世の中。

最初の“Coriolanus”はCoriolanus (Gijs Scholten van Aschat)と母Volumnia (Frieda Pittoors)のドライな確執を中心に公私混同甚だしい政治ショーのようなどさくさが描かれ、次の”Julius Caesar”はBrutus (Roeland Fernhout)の夫婦とJulius Caesar (Hugo Koolschijn)の夫婦のごたごたに女性政治家が出てきて、トーンはやや落ち着いてきて、最後の”Antony & Cleopatra”はAntony (Hans Kesting)とCleopatra (Chris Nietvelt)の関係を中心にもっとも扇情的でヒステリックな修羅場が描かれ、劇場の外に出て叫びまくるEnobarbus (Bart Slegers) - 寒そう - なんかもいたりして、最後は束に折り重なってみんな死んじゃうの。

当時のローマの政治のありようやシェイクスピアの戯曲のなかの登場人物の立ち位置を踏まえて(それと比べてどう、とか)見た方がおもしろいに決まっているのだが、どちらかというとポピュリズムとか現代の政治のありようと対比する(そっちに寄せる)ような描きかたをしていることについては、賛否あるのだろうな。 わたしはおもしろいと思ったけど。

”The Damned (Les Damnés)”との対比でいうと、残虐さ・惨さ(血みどろ)みたいなところには踏み込んでいなくて、知名度のある政治家の狡猾さ・破廉恥さ、それに動かされて右往左往する民(どっちもどっち)のようなところにフォーカスがあたっていて、それが三段跳びの厚さと長さ(6時間)でやってくるその執拗さねちっこさ、というか。

あと、みんなでよってたかって服を着せたり脱がせたり、っていうのは割と共有するIvo Van Hove印。

劇中にニュースキャスターがいたように、同時進行で流れていくTwitterの実況もいろいろとおもしろかった。ストリーミングだとこういうこともできるんだよね。

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