2.22.2021

[film] Once Upon a Time in America (1984)

2月6日、土曜日の昼にMUBIで見ました。もう2週間前か..
本当であれば、昨年12月のBFIで予定されていたEnnio Morricone特集で、でっかいスクリーンで見る予定だったやつ(見たかった..)。 監督Sergio Leone、原作はロシア系のアメリカ移民であるHarry Greyの1952年の小説”The Hoods”。 229分のやつ。

冒頭、ギャングに脅されてぼこぼこにされている別のギャングがいて、そこからNYのチャイナタウンのシアターの中にある阿片窟でラリってるNoodles (Robert De Niro)のところに伝令が飛んで、そこから彼が動きだすのと並行して、彼の少年時代のお話がゆったりと起動される。 1918年頃のブルックリンのユダヤ系移民の町で、そこの近隣のガキ共 - Max, Patsy, Cockeye, Dominicとつるんで悪いことしたり地元のボスBugsyとやりあったり、鷹揚な女友達のPeggyとセックスしたり、食堂のFat MoeのとこのDeborah (Jennifer Connelly → Elizabeth McGovern)に憧れたり、そうやってNoodlesを中心とした仲間たちの話が描かれる。

Bugsyに殺されたDominicの復讐でBugsyと警官を殺したNoodlesは刑務所に服役して出てきたのが1930年 - 禁酒法の時代で、かつての連中と一緒に闇商売で稼いで、でもそれも禁酒法解禁とともに終わると、Max (ames Woods)はよりでっかいヤマを狙ってニューヨーク連邦準備銀行襲撃の話を持ちかけるがNoodlesはそれを拒否して、それが運命の別れみちで、こんなふうに話は1968年まで繋がっていく大河ドラマで、ただしお話は時間に沿ってリニアに流れていくわけではなくてラストまで行ったり来たりを繰り返す - それらはほぼNoodlesの頭のなかで起こる。

彼らは基本はニックネームで呼びあって、別の名前を使ったり、別の人物とか別の死体になりすましたりもするのだが、いくらそういうのをやっていっても顔と目を見ればそうとわかる絆の元に生きていて、しくじっても裏切られても裏切っても逃げて隠れても許される/許されない、そういう関係の間柄にあって、それは”The Godfather”みたいに家族の血や系図を巡るドラマでも、Martin ScorseseのギャングものみたいにXXを巡る確執や憎悪や葛藤を前提としたドラマになっているわけでもない。 ドラマというよりは「やったろうぜ」みたいな共通の夢や野望と共にあった仲間たちの成長譚みたいなところ中心にとりとめなく描いた「失われた時を求めて」のちんぴらやくざ版、のようなかんじもする。

息詰まる展開とか思わぬどんでん返しに驚愕とか「あっという間でした」の濃さとは少しちがう、時間軸が伸びたり縮んだり時代があっちに飛んだり戻ったりで慌しくて、気がついたら3時間半が過ぎていた。

Federico Felliniが男 - 女を、都市を舞台に描こうとした終わりのない物語をすべてが若いアメリカ東海岸都市の不屈のガキ共の物語としてゆるく適用してみること、そのタイトルに”America”ってぺたっと貼ってしまうこととか、とてもヨーロッパ的な目線を感じた。 彼らの夢も現実も思い込みもブルックリンのユダヤ系移民の世界とチャイナタウンの阿片窟のなかに収まってしまうような、そんな目線。 開拓精神、みたいのは、なにそれ? になりそうなー。

他方で、これはもちろん西部劇の時代から延々と作られてきた典型的な男たちによる男たちのためのバディ映画であることも確かで、これをPeggyやDeborahやCarol (Tuesday Weld)の目線で再構成させたようなものが見たい。 いまの映画監督でそれができるのはJames GrayかTodd Haynesか。それかあの阿片窟のなかで全てが過ぎ去っていく”Flowers of Shanghai” (1998)みたいなやつ。

他方で、橋のたもとを野郎共になった彼らが行進していくとことか、バカみたいだけど「これが映画だ!」みたいにゴージャスなシーンが満載であることも確かで、この辺は文化財のように見てうわー、って唸っていればよいのかしら。 今後のデジタルがいくらがんばっても無理そうなやつ。

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