2.02.2021

[film] 風の中の牝雞 (1948)

1月23日、土曜日の午後、Criterion Channelで見ました。英語題は”A Hen in the Wind”。
細々と見続けている小津作品。細々と成瀬作品も見始めているのだが、成瀬はなんか書くのが難しい(なんでだろ?)。

太平洋戦争に敗けて国全体が貧困で苦しんでいた頃、東京の下町の、でっかいガスタンクの枠(?)が建っていて土管が転がったり瓦礫があちこちに積まれたり、木造の家屋が並んでいる一角の、そこの2階を間借りしてミシンの下請けをしながら息子の浩とふたりで暮らしている時子(田中絹代)がいる。夫の修一(佐野周二)はまだ戦争から戻っていないので区役所にずっと問合せをしたりしている(ことが冒頭の警官の巡回で明らかになる)。

時子は浩を連れて親友の秋子(村田知英子)のアパートに着物を売りに行ったりしてて、思い出の着物だけど物価が上がっているし浩のこともあるので最後の一枚を買って貰えないかと。秋子ももう全部売ってしまった、って。 秋子はその着物を同じアパートの織江(水上令子)のところに持ち込んで買ってほしいと頼むのだが、織江は時子さんはきれいなんだからその気になれば稼げるのに、という。秋子がムッとして彼女には旦那さんがいるのよ、というと、帰ってくるかわかったもんじゃない、苦労するだけバカバカしい、と。売ってくれって頼まれたという勲章についても帯留めにでもするか ー こんなの買う人なんているもんか、って。秋子は…(こいつヤな奴、って無言)。

そこから戻ると浩がぐったりしているので医者に連れていくと大腸カタルで、必死に看病してなんとか乗り切るのだが、高額の治療費を請求されて、憔悴しきった時子の頭に浮かんだのは …   次の場面はそれらしい夜の安宿で、終わったらしい男の客と横で麻雀をしている女たちのいやらしい会話で何が起こったのかわかる。翌日に織江から話を聞いた秋子が時子のところにやってきて、どうして相談してくれなかったのか、って責めるのだが、頼めなかったし必死だったのだ、と。 貯えのない女の身でそういうことになったとき、どうやってお金を工面するのか、って。そう言いながらもやっぱりわたしはバカだった、でももう遅い.. って泣くの。

続けて時子と秋子が原っぱで学生の頃に語り合った理想の家のことー 郊外で芝生があってエアデールテリアがいて旦那さんが「ファックスマクタ―」のコンパクトを買ってくるの.. でもくたびれちゃったな、って横になって空を眺める。そうして家に帰るとおとうちゃん - 修一が戻っていて再会を喜ぶのだが、留守中に浩になにもなかったか? って聞かれて、嘘を言えない時子が入院の際のお金のことについて詰問されて泣いてしまうと…

翌日秋子と会った時子が彼に言っちゃったことを話すと、そんなことをしても旦那が苦しむだけだ、ってまた秋子に叱られて、その晩遅くに帰宅した夫はまだ怒っていて、警察のように織江とはどう知り合ったとか、その場所はどこだったとか経緯の仔細を聞いてくる -  そこは「さくらい」という家で、8時過ぎで、その時男は先にいたのかとか、どんな男だったとか、答えないとひっぱたいてモノを投げて腕を捻じ曲げて、茶筒が階段を落ちていって、やがて修一は家を出て行って、朝になると「さくらい」に行って織江さんから聞いてきた、と告げると部屋に通されて、時子のことも聞いてみる。

やがて房子(文谷千代子)という女が現れて、隣の小学校の「夏は来ぬ」が聞こえてくる部屋で、修一は彼女にこんなことをしている事情について聞いて - 「しょうがないのよ」 - 金を置いて部屋をでて、河原でぼうっとしているとそこに房子が来て一緒にお弁当を食べると、更にふたりの問答は続く - 「21でなんでそんなことをしているんだ?」「嫌ならやめればいいじゃないか」「まじめに働かないのか? その気になれば」「バカにしてかかっているじゃないの」「まだ若いんだ幸せになれるんだ」などなど。 修一は2~3日したら勤め口を探してきてあげるから、という。

修一は職場の同僚の笠智衆から、「房子は許せてなんで時子のことは許してあげられないのか?」って聞かれて「いらいらする 〜 脂汗がでてくる 〜 寝られない 〜 自分ながらどうにもならない」って。笠智衆からは”Control Yourself”って言われる(まあ、そうじゃな)。

そうやって言われて家に帰っても、やはり修一は頑なで(こいつほんと大馬鹿だな、って思う)、また出て行ったりしないでください、ってすがる時子を階段から落っことしてしまう。スタントを使っているらしいが派手に転がり落ちる時子。 立ったまま名前を呼んで「だいじょうぶか」というだけで触ろうともしない修一。そのままなんとか立ちあがってひとりで足を引き摺ってよろよろ階段を昇っていく時子(ここだけ溝口の世界)。

そうやって戻っても「あなたの気の済むようにようにして 〜 あなたが泣いちゃ嫌です 〜 わたしは我慢します」と訴える時子に、「叱りはしない 〜 かわいそうだと思っている 〜 そうするより他なかったこともよくわかる 〜 忘れよう 〜 おれは忘れるからお前も忘れろ」と修一。 で、立たせて歩かせてみて「本当の夫婦になれるんだ」とか家訓らしいことを言って「わかったな」ってわからせる。 こんなの「和解」でもなんでもない。 ごめんなさいくらい言えないのか。
 
最後に逃げるように歩いていく野良犬いっぴき。犬も喰わないやつね。

戦後の復員兵だからと言え、貧困とかいろんな事情を背負っているとは言え、きっついDV丸出しで結構ひいた。 作品の評判がよくなかったのはわからないでもないが、それは身近にあったこういう暴力を見たくない意識も働いていたのではないか。 当時こんなのが「身近にあった」なんて言えるのか? 言えるよ。今も薄汚れた教師とか乱暴者が使うやり口や(悪いのは自分なんですに追いこんでいく)ロジックとほぼおんなじなんだもの。 そういうのの典型を極めてわかりやすく描いている、という点は評価してよいのでは。

ここに出てくる登場人物たちは、時子のとこの一階に暮らす家主を除いてほぼ「家」から離れたり「家」がなくなったりしてそれぞれ生活のために苦闘している。いやそんなことはないのだと、そうではない「家」、夢や幻かも知れないけどそういうことをさせないにっぽんの「家」を描くべく次作の『晩春』以降の小津は、野田高梧と共に、(特に女が)ひとりでいると不幸になる、って散々恫喝しまくることで維持されていく伝統的な「家」のありようを描いていくことになる。 この呪縛の紐はいまだに延々、「道徳」だのカルトのなんとか会議だのにも使われている気がする。

何度か映るガスタンクの威容がかっこよくて、これってHackneyのライブハウスの横にも遺されているのがあって見上げてしまうのだが、日本にもまだ遺ったりしているのかしら。

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