2.13.2021

[film] One Night in Miami… (2020)

2月4日、金曜日の晩、Amazon Primeで見ました。
Kemp Powers – こないだの”Soul” (2020)の共同監督 - による同名の演劇 (2013)をRegina Kingが(初)監督したもの。”If Beale Street Could Talk” (2018)での彼女の演技に感動した人はMUST。

1964年2月25日、フロリダのマイアミビーチで、まだMuhammad Aliになる前のCassius Clay (Eli Goree)がSonny Listonとタイトルマッチを戦って、圧倒的強さを見せつけてTKO勝ちする。

で、その輝かしい勝利の晩であるから女性を大勢招いたどんちゃん騒ぎで朝まで延々盛りあがるかと思いきや、Malcolm X (Kingsley Ben-Adir)が取っていたモーテルの一室に来たのはCassiusとNFLのJim Brown (Aldis Hodge)とシンガーのSam Cooke (Leslie Odom Jr.)の4人だけで、みんな俺らだけ? こんなすごい俺らがせっかく集まってきてるのに、食べ物もなんもないの? って最初はぶーぶーなのだが、Malcolmは冷静で、ある意図をもってやったのだと。

プレゼンスも、パワーも、影響力も、当時のBlack Americanを代表する最強の4人がある晩、ひと部屋に集まって、彼らならFBIが来ても宇宙人が来ても蹴散らすことができる、そんなAvengersのような4人でもどうしても動かせなない壁とか重石があった。 それが(明確には語られないが)白人たちのアメリカ - 最初の方で、NFLのスーパースターのJimが白人の家を訪れて歓待されても、荷物を動かすの手伝おうか? と申し出ただけでニガーは家には入れない、ってさらっと言われるエピソードとか -   こういうのはこの先自分たちがどれだけの名声や金を手にしても変えたり動かしたりしようのないなにかなのではないか? 彼らは、彼らの立っている位置故に、その見えない壁がはっきりと見えていて、そこをどうにかしたい、と思っているMalcomが彼の部屋に、彼の脳の内側に、他の3人を呼びこんで対話させてみようか、という舞台劇。 4人のことをそんなに知らなくても十分楽しめる(と思う)。

勿論、彼らは彼らなりの事情や葛藤を抱えていて、元気いっぱいのCassiusはMalcomのガイドによってイスラム教に改宗したばかりだし、スポーツ界でやれることの限界を感じているJimはハリウッドに転身しようとしているし、Samは白人の客に媚びてばかりのショウビズのありように限界を感じてはじめているし。 みんなCheerUpなんて必要ない。でもどっちに向かって走りだすべきなのか、なにを語りだすべきなのか、立ち止まって考えた方がいいかも、って。

実際にこの時点での彼らの(例えば公民権運動に対する)意識や関心がどの辺にあったのか、そもそもあんな喋り方や動きや着こなしをする彼らだったのか、なんでこの4人が選ばれたのか - 多少のリサーチはしているのだろうが – そういう懸念はあまり関係ないしそもそもこの4人が一堂に集まった記録があるわけでもないので、これは完全に練りあげられた架空の、密室の会話劇なのだが、それ故にそれがもたらす高揚感とある種の爽やかさはすばらしい。

本当にすぐそこまで来ているんだ – とMalcomは静かにいう。Rolling Stonesは弟子のBobby Womackが作った”It’s All Over Now”をカバーしているし、これを聴いてみろ、ってプレイヤーでBob Dylanの“Blowin’ in the Wind”をかけてみたり。この歌には世界を変える力があると思わないか? 君の歌にもそういう力があるんだと説く。Samはうん、そうかも! なんて方には勿論行かなくて、そうかもしれないそうじゃないかもしれない、と俯いて考えながらその年の12月に"A Change Is Gonna Come"をリリースすることになる。

この対話だけではなくて、それぞれがそれぞれの場所で静かに火を点けられ、あるいは自分で火を点けて、夜明けの町に足を踏み出そうとしていたひと夜の出来事があったんだ。って想像してみるのは悪くないの。

この約1年後にMalcomもSamも殺されてしまうことを我々は知っている。その事実故に、現時点にまで至るどこまでも終わらない正義の戦いを知っているが故に、ここで語られたこと - この一夜が灯台のように照らした光は正しかったのではないか。

ここでの女性の影は薄くて、彼らの妻も少しだけ出てくるけど、まだ客席の後ろの方にいる。それは勿論意図あってそうしているわけで、この数年後、どこかを舞台にした女性版が作られたらよいかも、と思う。

4人それぞれの、落ち着いた - というのとはちょっと違う、奥から溢れてかえってくるものを決壊しないように抑えこんでいる(ことがわかるようにする)演技 - 怪しくなる一歩手前の - がとてもよくて、それはRegina Kingの演出の力ではないか。彼らのパワーをマッシブにアイコニックに見せないようにしている、というか。


毎日のようにいろんな人々が亡くなっていてあーあー、の日々なのだが、自分を保たせるのに精一杯なので悼むとかお悔みとかそういう方になかなか向かわないのはよいことなのかどうなのか。 よくないよね。
 

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