5.28.2020

[film] Women Make Film: A New Road Movie Through Cinema Part 1 (2019)

5月の終わりの三連休にやっつけたかった大物のひとつ。 23日の昼、BFI Playerで見ました。179分。

監督Mark Cousins、ナレーションTilda Swintonさまによるこのドキュメンタリーについては、3月のBFIでのTildaさんの特集のとき、3/13の”Peter Ibbetson” (1935)の上映前のふたりのトークで軽く紹介があって、その時はみんな見てねー、とか笑っていたので、もちろん見るよ!って思って、でもその後に全容を知ってびっくり、全部で14時間..  BFI Player上ではこれからPart5まで出てくるらしく、これがその最初のパート。

映画館とか映画祭とかにちょこちょこ通ったりしていると、たまに映画に脳髄脊椎やられちゃった生粋の映画バカ、みたいな人(褒めてる)に出会うことがあるが、もう十年以上、スコットランドの田舎で自分たちの自主映画祭をやってきたこのふたりはまさにそんなふうで、スコットランドのキルトを履いたMarkとTildaは”The State of Cinema”の旗を掲げ、”Tainted Love”にのってくるくる踊りながら映画を見るのよ! って訴えていた。

そんな彼らが女性の監督した映画についてのロードムービーを作った。女性だって男性と同じくらい沢山映画を作っている、けど紹介される機会は男性のそれと比べるととても少ない(事実として)のはおかしいよね、と。 それは単にその映画がおもしろくないからだけじゃないの? いやいやそうじゃないと思うよ、これを見てみ、って。 そもそも、男性の映画、女性の映画どっちが優れているとかそういう議論をしてもしょうがないし、そういうことを言ったり競ったりするためのドキュメンタリーではないの。ここ100年くらいで女性が作った映画の断片を並べていく、そこで見えてくるのはなにか? 彼女たちが見せようとした世界はどんなものだったのか? 彼女たちはそれらをどう見せようとしたのか? 

Mark Cousinsの組みたてた車に乗って、Tildaが運転席に座って、あのすばらしい声とわかりやすい英語のガイドで幹線道路を走っていく。 脇道獣道には入らないかもしれないけど、いろんな景色が見えることは保証つきの14時間の旅。 こんなの乗るしかない。

このサイトに感想を書いている映画は女性が監督した映画が多いし、いまのこの時期にオンラインで見る映画も割と意識的に女性のを選んでいる。 男の監督したやつはどうせ誰かが見るだろうし書くだろうし、偏見だけどつまんないだろうし、って。なぜみんな宣伝するときに「女性監督の」って付けるんだ? とか。 日本だと邦題に「幸せの」とか「未来の」とか付いて宣伝はパステルカラーに丸文字お花畑のメルヘンになって、いい加減にしろよ、っていうのはずーっとあって、でも、それでも実際見るとおもしろいからね。

ま、こんなこといくら言っても見ないひとは見ないだろう。音楽でも絵画でもおんなじよね。

というわけで見始めたのだが、始まってすぐにこれはメモ取りながらじゃないとだめだ、って思って、止めては書いて(オンラインのいいことわるいこと)をやっていたので軽く4時間くらいかかった。 こういう映画の授業って歴史のも制作のも批評のもきちんと受けたことがないのでとにかく新鮮で、仕事のときの100倍の熱でノートをとる – そして字が汚いので書き起こすときに読めない..

13 decades - 6 continents - 40 Chapters (40 roads) というのがTildaさんの前説で、サンプルとしてクリップされた映画はPart 1の8 chapters で130本(重複あり。がんばってリスト作った。大変だった)。

イントロとして紹介されたのは次の4本。

- “We Were Young” (1961)  Binka Zhelyazkova
- “You and Me” (1971)  Larisa Shepitko
- “On the Twelfth Day...” (1955)  Wendy Toye
- “Brief Encounters” (1967)  Kira Muratova

ここから”What’s an engaging way to start a film?” – “How do you set its tone?” – “How do you make it believable?” – “What’s an inventive way of introducing character?” – “What’s a great way to show love, tension, memory or death?” といったような映画制作に関わる実践的(practical)な問いが出されて、以降のチャプターに落ちていく。映画史的な総括を目指すというより映画を作る= 世界を構成する/しよう、と思ったとき女性作家たちはなにをどうやってきたのか、を紹介するAcademy of Venus - 講師は全て女性である、と。

このPart 1で紹介されたchapterを順番に。

Chapter 1  Opening

よいオープニングショット、シーンはどんなものか、映画の始めに世界はどんなふうにその姿を現すのか、24本のクリップと共に紹介する。俯瞰とか上から見下ろすとか、顔のアップとか、いきなりパニックとか、いきなり足とか、いきなり質問とか、主人公は誰だろうとか、お目覚めとか、キスとか、気配とか、世界はいろんなところから始まる。ぜんぶ見たくなる。

Chapter 2  Tone

音楽のメジャーマイナーと同じように、映画のトーンはどんな要素で決まるのか、それはどんなふうに決まるのか、を14本のクリップと共に紹介する。階級とかソーシャルなものへのフォーカス、クリスマスとかのイベント、人物の間のテンション、ダブルトーンによるグラデーション、フリルとかカーテンといったガールスクールアイテム、死を暗示させるもの、などなど。

Chapter 3  Believability

これはものすごく大切なの、ということで、スクリーン上に展開される世界を本当にそれってそうだよね、って確信させる力とか要素ってなんなのか、を15本のクリップと共に紹介する。ドキュメンタリーの直截さとは別に、映画における「真実」のありようを”Tiny needles of truth” (バルト)、ディテールの確かさ、リアルタイムで追うこと – Kelly Reichardt の“Meek's Cutoff” (2010)  、子供たちの動き、服を脱ぐ動作、欲望に直結させる、実際にそれが起こった場所で撮る、複雑さ (Complexity)の表現にショットを細かく切る - Kathryn Bigelowの”Point Break” (1991)  、などなどから示していく。これもいっぱいあるねえ。

Chapter 4  Introduction to character

次からの3章は映画の中の人々(People)と我々はどうやって出会うのか、で、その最初としてキャラクターの紹介のところを11本のクリップで紹介する。玄関の表札から入っていく田中絹代(Japan’s Bette Davis)の『月は上りぬ』(1955)が最初で、登場人物が自分でカメラに向かって紹介する3本 - ”The Connection” (1961) - Shirley Clarke、”The Watermelon Woman” (1996) - Cheryl Dunye、”Wayne's World” (1992) - Penelope Spheeris - とか、ぐるぐる同じところをまわるとか、変容(metamorphose)していくとか、 いろんな人がいるようにいろんな撮りかたがある。

Chapter 5  Meet Cute

映画の中で人々はどんなふうに出会うのか、を14本のクリップで。最初がAstrid Henning-Jensenの”Kranes konditori” (1951)の橋の上と下の出会いで、これが撮られたのは”All That Heaven Allows” (1955)の4年前なんですよ、とか。 “Grand Central” (2013)  Rebecca Zlotowski のLéa Seydouxのキスとか、ロマンスだけじゃなくてゴスやホラーとしての出会いもあるし、”Wanda” (1970)がバーテンを殺すところとか、”Vagabond” (1985)の目が見えないおばあちゃんとの出会いとか。

Chapter 6  Conversations

前章の出会いが持続するために必要な会話はどんなふうに描かれるのか? を18本のクリップで紹介する。ほーんときりがないけどおもしろかったのは、”Girlhood” (2014) - Céline Sciammaの女子たちのお喋りが男子が来ると静かになるとこ、Agnès Vardaの”One Sings, the Other Doesn't” (1977) のテニスのラリーのような会話、そうそうこれよ! だった”The Virgin Suicides” (1999)の電話越しに音楽を聴かせあうとこ、他には1+1=3になるような会話、言葉のない会話、手話、音楽がブロックする会話、死んでしまった人とのLipsync、締めはCéline Sciammaの”Tomboy” (2011)  で、「彼」に名前を聞くとこ(じーん)。

Chapter 7  Framing

ここからの3章はvisual aspects of shots、ということでまずはFramingについて、22本のクリップと共に紹介する。最初に ”One Sings, the Other Doesn't” (1977) の3人→2人→1人→他者、というフレームの遷移から入り、全体が映りこんだフレーム、”Wanda” (1970)の彼女がひとりで小さく歩いているところにズームするとことか、フェルメールの、モネの、表現主義の、やはり絵画に例えられるものが多いとか、この章だけで3本紹介されているIda Lupinoのどれもシャープでかっこいいフレーミングとか。   

Chapter 8  Tracking

切り取られたフレームはどんなふうに移動 (track)していくのか、を8本のクリップと共に紹介する。最後のとこで、映画史上の最強トラッキング野郎たちとしてOrson Welles、Alexander Sokurov、Max Ophülsの名前を挙げて、だけどこれもすごいと思うのよ、って紹介されたのがChantal Akermanの”D'Est” (1993)のターミナルの横移動で、そうこれもあったこれ! だった。

これはロードムービーなので、この道来たことある/この景色は知ってる/これよりすごいの知っている/わかってる、のようなコメントはいくらでも出てくるのだろうが、わたしは十分おもしろかったしスリリングだったし、まだまだ見てないな、見なきゃな、になってばかりだった。

そして、ここに集められた作品がぜーんぶ女性監督の手によるものだということは何度でもゴシック太赤で強調してよいことだと思うし、これらを「女性らしさ」とか「女性ならではの優しさ」「繊細さ」「感性」のような言葉も概念も一切使わずにどこまでも優しくクールにガイドし続けたTildaさんはなんて偉いのかしら。(って言うと偉いのは映画とそれを作った女性たちよ、って返すの。あの笑顔で)

BFI Playerでは、ここで紹介された映画もいくつか見れるようになっているので、part 2-3くらいまで行ったところで見てみよう。


日差しはきんきんに強く眩しいのに風だけは冷たい - 年に数回あるかないかの、すんごく気持ちのよい5月の日。 これが来てしまうと、ここから先はもうあんまし、の気分になるのでかなしい。(夏至以降の日々とおなじ)

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