5.12.2020

[film] Diana Kennedy: Nothing Fancy (2019)

3日、日曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。英国でよいドキュメンタリーを沢山出しているDogwoofの配給。
(ロゴがばうばう!って吠えるのがよいの)

Diana Kennedyさんは1923年に英国で生まれたシェフ - 料理研究家で(今は97歳)、特にメキシコ料理の世界では料理本を出して、TVにも出ているし、2014年にはJames Beard Cookbook Hall of Fameを受賞している。 名前を知っているくらいだったけど、こんな人だったのかー、って。

英国のエセックスで生まれ、第二次大戦の時は戦場に行って不在となった男性達の替わりに林業をする女性の市民組織に入って、そこからカナダに行っていろんな仕事をして、57年に滞在していたハイチでNY Timesの中南米特派員だったPaul P. Kennedyと出会って結婚してMexico City駐在となって、そこからメキシコ料理の世界への旅が始まった、と。

90を過ぎた現在もひとり車で町に出て行って、マーケットでいろんな食材を見て調べて持ち帰って、という様子が描かれる。彼女は50年代からそんなふうにメキシコ各地、奥地に赴いて、土地によって異なるスパイスや食材や調理方法を調べて写真や文章にして、ていう文化人類学者みたいなことをしていって、65年に夫と共にNYに戻って69年に夫を癌で失うと、することがなくなったのでアパートの台所でメキシコ料理のCooking Classを始めて、それが評判になったので本に纏めて、本が増えたらTVに出るようになって、その間も現地で調べることは継続していった。

こういうのを50年以上続けている彼女はすごいのだが、それを続けさせてしまうメキシコ料理の方もすごくないだろうか? 彼女がメキシコ内で探索を始めた頃、地域によって唐辛子やとうもろこしの種類も使い方もあまりに違うことに驚いて、その違いが旅をより遠く深くに誘っていったと言っていて、たぶんそれってメキシコに限った話ではなくて、南米のそれぞれの国でも中国でもロシアでも、もちろん日本でもそうだよね。食と人々の暮らしが古くからその土地に根差したものであればそうなること、そこからの学びが終わりのない旅になることは容易に想像がついて、そういった地域性の追求から離れて食が汎化・共通化して流通していくこと、更にはその共通性が地域の台所を壊してその土地の食を画一化していくことの危惧も語られる。これってお皿から一口頬張って「おいしいー」って点数つけて競争ばかりしている今の食のありようと表裏だよね。

そして、だから彼女はアメリカでほんもののメキシコ料理を教えて、広めてきたのだと思う – こうした方がいい/こうしてもいい、ではなく、これはしてはいけないのよ、というやり方で – “Nothing Fancy”。この姿勢は、例えばAlice Watersさんがカリフォルニアという土地でやってきたことにも似ていて、このふたりがハグしている場面はちょっといいの。

彼女がワカモーレのつくり方を講義するところがあって、わたしにとってのワカモーレって、(それが正しい作り方なのかどうかはわかんないけど)、NYのRosa Mexicanoのテーブル脇でしゃかしゃか5分で作ってくれるやつで、ここのを食べてしまうとペーストみたいなワカモーレはお呼びじゃなくなるの。食べたいよう。

メキシコ料理の不思議な繊細さ、というのは確かにあって、粉の粗さ、トルティーヤの焼き具合、スパイスやハーブのちょっとした加減ですべてが劇的に変わってしまうあれってなんなのだろう、とは思ってきた。魔術.. とか言いたくなるけど彼女は自分の庭園でハーブや植物をきちきち育てて調べていったの(彼女は英国人だった.. )。

ロンドンにはなんでおいしいメキシコ料理店がないのだろう - 探せばあるのかしら?


BFI Playerのsubscriptionに“BFI Japan 2020: Over 100 years of Japanese Cinema”ていうタイトルで日本映画がいっぱい入ってきたのだがリストにぜんぜん見たいのがない。
黒澤なんていまちっとも見たくないし、Distancingの小津はあんま笑えないし、成瀬はいま見たらぼろぼろに泣いちゃうだけだし。

いまは清水宏とか川島雄三とか三隅研次とか加藤泰とかを見たい(根拠ない)。
あと、マキノの「次郎長三国志」をとっても狂おしく見たい(根拠ない)。
 

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