5.03.2020

[film] Wittgenstein (1993)

4月26日、日曜日の晩、BFI Playerで見ました。この日がWittgensteinさんの誕生日だったので。

Derek JarmanによるLudwig Wittgenstein (1889-1951)の評伝ドラマ。
元はUKのChannel 4(TV)で哲学をテーマにした教育用プログラムの企画があって、4人の哲学者(ソクラテス、スピノザ、ロック、ウィトゲンシュタイン)がピックアップされ、その時点でWittgensteinのスクリプトはTerry Eagletonが書くことに決まっていて、監督は紆余曲折の末、Derek Jarmanになった、と。
で、最初はTV用の50分で撮っていたものが、Pre-Productionの段階でBFIから72分の映画にするように言われた、というようなことがBFIから出ている”Wittgenstein - The Terry Eagleton Script - The Derek Jarman Film”という冊子には書かれている。

この冊子にはTerry Eagletonのオリジナルのスクリプトと映画の実際のシナリオの両方が載っていて、両方をきちんと読み比べて比較したわけではないが、Terry Eagletonのそれは登場人物から何から(JarmanとKen Butlerによって)相当改変されていて、それは冊子の序文でColin MacCabeが書いているように現場でいろんな人の声を聞きながら取りいれていくJarmanの演出・制作スタイルにもよるのだろうが、Eagletonの方には少年のWittgenstein (Clancy Chassay)もLydia Lopokova (Lynn Seymour)もLady Ottoline Morrell (Tilda Swinton)も火星人も出てこないの(そりゃそうかも)。

映画はウィーンの裕福なおうちに生まれたWittgenstein (Karl Johnson)が英国に行ってケンブリッジに入って、師のBertrand Russell (Michael Gough)やJohn Maynard Keynes (John Quentin)との交流を通して自身の思索と思想を深めていく様をじっくり、ではなくてショートコント風のスケッチの連続の中に描いていく。  少年時代の彼を出すのは彼自身の思想の深化を外から追おうとしているのだろうし、火星人を出すのは人間じゃない知性がそれをどう捉えるか、とかそういうこと、かしらん。

Wittgensteinの哲学って、前期の方の、世界はどういうロジックのもとで成り立っている/成り立っていると考えられてきたのか - というテーマについて、そのラストでその枠で語り得ないものは黙るしかないよな、って開き直ったあと、後期になるとその枠組みを構成している言語とかそれを組みあげる文法とかやりとりとか規則(ゲーム)に寄っていって、細かいところに入ると難しいのだが、大枠で俯瞰してみると第一次大戦期から20-30年代までの「世界」(ヨーロッパ、ウィーン)のとらえ方 - 歴史・芸術・科学・宗教、などなどに対する揺らぎや混沌のなかに位置づけることができる。すんごく大雑把だけど。

で、Terry Eagletonはマルクス主義批評の観点から文学の領域でそういう捉え直しをしてきたのだし、Derek Jarmanは散文調で直感的ではあるが英国文化や歴史の成立について映像を使って表現してきたので、彼らがWittgensteinの評伝を取りあげるのはとっても正しいと思うのだが、この作品に関してはものすごく軽い。 ヴィジュアルのセンスも含めてNHKが小・中学生向けに作った入門番組みたいにださくて、もうちょっとなんとかー。

一箇所だけ、Lydia Lopokovaが夫のKeynesに、彼をBloomsbury Groupに入れましょうよ、っていうとこ。どうなっただろうねえ。 Bloomsburyがやっていたようなことって、彼にとっては火星人並みに一番理解不能なやつだったかも。


この週末、TVではずっとTwilight Sagaをやっていてついだらだら見てしまうのだが、へんなお話だよねえ。 でも見ちゃうのねえ。 週末終わっちゃうよう、って泣きながら。

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