11.16.2022

[film] La pyramide humaine (1961)

11月9日、水曜日の夕方、ユーロスペースの特集上映「現代アートハウス入門 ドキュメンタリーの誘惑」 - すばらしくよい特集だったのに見れたのはこれだけだった - で見ました。邦題は『人間ピラミッド』。

Jean Rouchによる映画とは、映像とは、そこで展開される「俳優」や「演技」のありようがどうやって社会と関わってくるものなのか、になどに関する基礎文献のような作品。

タイトルはエリュアールの1926年の散文詩集“Les Dessous d’une vie ou la pyramide humaine” 『ある人生の裏面または人間のピラミッド』から取れらている、と。 映画って人生の裏面、なのかしら?

1959年、フランス領コートジボワール、アビジャンの高校で、地元の高校のアフリカ系学生と親の仕事で現地に来ている白人学生の間には意識的or無意識的な壁があるのか放課後の遊びも交流もなかったりする。それに気づいたJean Rouchは、この状態を克服しようとする(or 反発しようとする)生徒たちの行動「について」そのまま映像に収めてみようと思う。

冒頭は、監督本人から生徒たちに対して、君たちの学校生活の映像を – 特にアフリカ系学生と白人学生の交流について - 撮ること、どういう内容について撮るか - 異人種間でもっと交流をしたい/すべきと思う生徒もいるし、別にそんなことする必要はないと思う生徒、無意識の差別意識や偏見を持っている生徒もいる、そういうキャラクターを各自に割り振るので、その役割設定に従うかたちで実際に動いてみてほしい、と。それがどういう結果をもたらすことになるのかわかっているのか? という生徒からの問いにはわからない、と返す。そんなことも検証できてないのにやるなんて信じらんない、と生徒。

こうして、自分たちに割り当てられたキャラクターに従い、もっと交流して互いを知るべき、という考えをもつ(ことになっている)白人のナディーン、アフリカ系のドニーズの2人の女生徒のサークルを中心として、授業中に、休憩時間に、放課後に、舟とか自転車で、それぞれのコミュニティで、それぞれの家庭で、街角で、繰り広げられていくいろいろな会話や行動が、そこから生まれていく友情や恋心、更にはそこから広がる失望やあからさまな敵意などが並べられていく。

彼女のところに遊びに行こう、遊びにいかない? (はじめは同性、続いて異性も。人種間だけじゃなくてジェンダー間のギャップもある)という動きに対して、信じられない – そんなことをするあなたはもう友達じゃない、という反応がナディーンがアフリカ系の彼とデートを重ねるようになって以降に出てきて、動揺と波紋を広げるようになり、やがてみんなで遊びにいった難破船のある海に入って自殺してしまう男子学生(もちろんフィクション)、にまで行って、最後はナディーンがフランスに帰国してしまう。

自分の行動がその周りにいる誰かになんらかの影響とか行動を引き起こして、それはやった人には思いもよらないような形での刺し傷とか弾丸のようになることもある。人間ピラミッドの上の人は下にいる人のことなんてふだんは知ったこっちゃないのだ、という影響とかダメージの波及のしかた、そのありようを分かりやすく示して、それって日々当たり前に起こっていることだけど、こんなふうに見えたりもする。それは原作や脚本があって、その決められたラインに従って監督やスタッフが俳優たちを固定したり動かしたりして作っていくドラマとは起こりうるコトの次第あれこれの幅や深さが根本的に違っていて、でも我々の周囲で起こる(起こり続ける)出会いとか別れって、だいたいこんなふうな、自分が自分ではない場所に置かれたところから始まったりするものなのではないだろうか? という提起がある。

ロメールやリヴェットの「ドラマ」とはとても呼べないような不安定で危うい筋運びとか、上手いのか下手なのか俳優? なのかすらわからない彼らがこっちに来たり向こうに行ったり、それだけのことにはらはらのめり込んでしまうのも、こういう「現実」があるからで、それはいまのここの現実のありようと地続きで、だからつまり。 こういうのははっきりと映画の、映画だからできることのひとつと言ってよいのだ、と言っている気がした。

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