11.02.2022

[film] Irma Vep (2022)

いろいろ溜まってきたので書きたいのから書いていく。
10月30日、土曜日の午前から午後にかけてep.1~4を、31日(会社休んで)月曜日の午前から午後にかけてep.5~8を、東京国際映画祭で見ました。場所はよみうりホール。

この映画祭で一番見たかったやつなので発売日に突撃して、でもぜんぜん繋がらなくて泣きそうになったやつで、なのに当日の会場はどちらもかわいそうなくらいにがらがらで、前の方の真ん中に移動してとってもだらしない恰好でみた。

今年の6〜7月にHBO Maxで放映された8エピソードからなるTVミニシリーズで、製作にはA24も関わっている。
上映前、ビデオで監督・脚本のOlivier Assayasがメッセージを。この作品は本来このサイズと音量で、一本の作品として一気に見られるべきものであり云々。 彼、”Carlos” (2010)の時にもNYFFでまったく同じことを言っていたよね。

彼が1996年に撮った”Irma Vep” – 当時監督の妻だったMaggie Cheungを主演に据えた愛すべき(としか言いようがない)インディー作品のセルフリメイク、という以上に、そもそもここでやろうとしていたLouis Feuilladeのサイレント“Les vampires” (1915 -16)シリーズのリメイク、というよりモダンなリブートで、これらの製作を通してAssayasの映画愛というか、それ以上に映画活劇とはどういうものか、なぜそれが社会に必要とされるのか、を考察するものにもなっている。

全8エピソードのタイトルはFeuilladeのオリジナル版の10エピソードから8つをそのまま転用している。以下順番に”The Severed Head” - “The Ring That Kills” - “Dead Man's Escape” - “The Poisoner” - “Hypnotic Eyes” - “The Thunder Master” - “The Spectre” - “The Terrible Wedding”。

アメリカからIrma Vepを演じるMira Harberg (Alicia Vikander) – MiraはIrmaのアナグラム – がパリにやってきてアシスタントのRegina (Devon Ross)と合流する。Miraは主演していたジャンクSF超大作 - "Doomsday"のプレミアへの参加もあるのだが、それの監督でかつて恋人だったHerman (Byron Bowers)と更におなじくMiraの恋人だったLaurie (Adria Arjona) – しかもHermanとLaurieは結婚間近 - もパリにいると聞いてげろげろ、ってなる。

それとは別にMiraは”Irma Vep”の監督のRené Vidal (Vincent Macaigne) - 96年版と役名は同じでJean-Pierre LéaudからVincent Macaigneに – やコスチューム担当のZoe (Jeanne Balibar) - 96年版のNathalie RichardからJeanne Balibarに、頭を抱えてばかりのプロデューサーGregory (Alex Descas)は96年版から変わらず – たちと会って、最初の衣装合わせでIrma Vepのスーツ - 96年版のぴっちりとしたラテックスからよりしなやかな柔らかい素材に変わって、これを着て動き出した瞬間のMira = Irma Vepの見事さに全員がほーってなる。

エピソードのサブタイトルをきちんと反映してストーリーが展開していくものではなくて、①現代の製作現場のスタッフ側、キャスト側それぞれの苦労に不満に困難、②オリジナルからの該当場面の抜粋、③場合によってはそれが撮られた時の主演女優Musidoraの回顧録を映像化したもの、④実際に撮られた画面の抜粋、⑤場合によってはそれが1996年版ではどう撮られていたか、などがランダムに繋げられていく。なんでそんなやり方をするのか、というと映画の撮影はそう簡単に運ぶものではなくて、それは100年以上前の吸血ギャング団が社会に向かって仕掛けようとしていたあれこれとか、主演のMusidoraやMiraが直面する女性に向けられた蔑視の目とか、前作の後の妻との別離が監督にもたらした衰弱と疲弊と、幾重にも重層化された困難に溢れていたから。

でも、映画は複雑にこんがらかったメイキング、に留まることなく、それでも映画とは、映画だから、というところに踏みとどまって強く何かを訴えようとしている気がするし、これは冒頭にAssayasが語ったようにコメディなの。 吸血鬼団の話なのに誰ひとり死なないんだから。

監督やMiraによるFeuillade版の解釈だけでなく、Reginaがずっと抱えているドゥルーズの「シネマ2」や、そうやって勉強中の彼女が監督不在の隙間を埋めることになった時に持ち出してくるKenneth Anger - ルシファーが召喚する白魔術としての映画とか、もちろんハリウッドのフランチャイズものとか配信プラットフォームとか昨今の「コンテンツ」の変容とか、現代にこのクラシック「映画」を再生させることの意義にまで踏みこもうとする。

Miraは見るからに大金持ちのGautier (Pascal Greggory)からグローバルに展開する香水のメインキャラクターに指名されたり、LAのエージェントZelda (Carrie Brownstein!)からは女性のSilver Surfer役のオファーが来ていたりの順風満帆で、これに対してRené Vidalは96年版でもとっても不安定だったが、今回もパニック障害を起こして現場を放り出して失踪してしまう。

96年版では代行監督としてLou Castelがやってきたが、今回はよりによってハリウッドからHerman(とLaurie)が現れてやり方をぜんぶ変えたい、とかわめくのと、失踪してしまったRenéの魂の彷徨いもきちんと描かれる。 セラピストとの対話とか、96年版で主演した後に別れたJade Lee (Vivian Wu) - 96年版は役名もMaggie Cheungだったけど – が突然目の前に現れて – どうも彼女は幽霊っぽい – Renéとしんみり話すシーンはとっても沁みたり。

あとはMira以外にキャスティングされた俳優も – 高慢ちきで待遇に文句を言い続ける共和党野郎のEdmond (Vincent Lacoste)とか、Miraの元カレの俳優で、いまの恋人 – ティーン向け歌手のLianna (Kristen Stewart)が流産しちゃって辛いようって泣きながらMiraのとこにヨリを戻しにくるEamonn (Tom Sturridge)とのエピソードとか。でも極めつけはドイツからきたコカイン中毒で大暴れする大男のGottfried (Lars Eidinger)が底抜けにすばらしい。彼が自分のパートの撮影を終えたあとのパーティ(Thurston Mooreがギター抱えて登場)でぶちあげるスピーチなんて立ち上がって拍手したくなった。

GottfriedがR.W. Fassbinderに言及したりするところもあり、なんか“Warnung vor einer heiligen Nutte“ (1971) - 『聖なるパン助に注意』みたいなことをやりたかったのかしら? Lou Castelもいたし。

あと、特筆すべきなのはAlicia Vikanderのダンスも含めた動きのしなやかさと軽さ、そしてVincent Macaigneの懐の深さというか、ジブリみたいに伸び縮み自在のふてぶてしいかんじがたまんない。

とにかくいろんな場面や局面が最後までとっ散らかり続けるので、見ていて飽きないしあっという間に終わってしまうし、こんなふうに感想とかいくらでも書いていけるのが楽しい。

あと音楽は、Thurston Mooreで、加えてAssayasの映画なので次から次へといろんなのが流れてくるのでたまんない。今回印象に残ったのはTelexの“Moscow Diskow”とかNenaの”99 Luftballons”とか。欲を言えば、96年版でのSonic Youthのささくれだったギターが刺さってきて空気がざらっと変わるあのかんじがほしかったかも。

あと、Tシャツとかトートとか、いちいち全部おしゃれ過ぎてほしいのばっかし。

そして、なんといっても、René Vidalが完成させたはずの”Irma Vep”の最終形がどうなったのかを見たい。あれだけ撮っていったのだからあとは編集するだけではないのか。絶対傑作に決まっているし。

そしてそして、そこまで行って最後に浮かびあがる(はずの)Irma Vepとは何者なのか?
 

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