2.28.2019

[film] Il deserto rosso (1964)

16日土曜日の晩、BFIのAntonioni特集で、”The Passenger”に続けて見ました。『赤い砂漠』。
これは以前日仏のなんかの特集で見た記憶がある。

上映前にAntonioniの生前最後のパートナーだったEnrica Fico Antonioniさんによるイントロがあった。 初めてのカラー作品 – 特に望んだわけではなく業界全体がカラーになっていったので仕方なく - ということでいろいろリサーチして、色使いに関してはモダンアートの、特にロスコに影響を受けていたとか、これまでの方向性とは違う何かを求めて考えに考えて、でこれの次は英国に行くことになるのだが、とにかく新しいなにかをやることについて非常に貪欲だった時期の作品である、とか。

ただまったく新しい、というよりは”L'eclisse” (1962)の最後の、建造物が視界を圧して侵入してくる感覚とか、初期のドキュメンタリーで撮っていた工場の人手を介さずとも勝手に動いていってどこまでも止まらない風景の延長にあるかんじは、なんとなくある。

Giuliana (Monica Vitti)が小さな男の子の手をひいていて、その脇では工場の労働争議でデモとかやっていて、大規模な工場からはいろいろ動いたり排出されていて、神でも人手でも手をつけられないような状態があって、夫はGiulianaのパニックを見ているだけ、夫の仕事仲間で南米でのオペレーションの人手を求めてやってきたCorrado Zeller (Richard Harris)と移動していくうちに親密になっていくのだが、なんか乗れないしひとり砂に埋もれていくかのような孤独感は増していくばかりでどうしようもなくて、狂ったり醒めたりを繰り返していて、自分も周囲も延々困惑し続けている。

途中で男の子の脚が動かなくなってどうしよう、って狂ったようになるのだがそのうちに治って、なんだったのかしら? なのだがそんなふうに環境に操られているかんじが常にあって、これもまたどうすることもできない。

というそれだけの映画で、若いひとは知らないだろうがかつて「公害」という呼び名で重大な社会問題として認知・対応されていた事象があって、それはひとの身体や感覚にどんな影響を与えるのか、逃げようはあるのか、ていうようなことを精緻に繊細に、終末感とか対処法とかとは異なる、国でも家族でも人間関係でもない実存のレベルで描いているかんじがある。そしてそれは結果的にGiulianaの生のありようをぞっとするコントラストで生々しく浮かびあがらせる。 赤い砂漠 - 砂漠にはありえない赤い色の。

昔は光化学スモッグ(ていうのがあった)が来ると放送があって外で遊ばないように、とか言われたりしたのだが、いまはPMなんとかにしても黄砂にしても数値で表して発表して終わり(あ、ミサイルの放送があるね)、温暖化にしてもCO2の数値とか指標の話になっていて、それってなーんかおかしくない? なかんじはある。パブリックがやるべきなのは数値が出てからその先のことのはずなのに、とにかく産業とそれがもたらす恩恵が優先で、だってそれがないと大変でしょ困るでしょ、ていうロジックで逆らってはいけない(or 逆らっても無視する)空気ができあがってしまっている。水俣病の頃からそのメンタリティってちっとも変っていないし、それは311以降のケアも同じで、要は上にはへつらえ下は耐えろ我慢しろって。その空気こそが諸悪の根源なのにさ。とかそういうことを考えてしまったり。

纏わりついてきて逃げようがない、そこで生きないわけにはいかない環境のありようを色のトーンとコントラストで描いてみる、という試みはそれなりに成功していると思う。けど一番目にしみていいなー、ってなるのはGiulianaの着る薄緑色のコートだったり。

これと関係ないともいえないWelcome Collectionで今やっている展示 - “Living with Buildings”、終わっちゃう前に行かなきゃ。

https://wellcomecollection.org/exhibitions/Wk4sPSQAACcANwrX

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