2.08.2019

[film] If Beale Street Could Talk (2018)

3日、日曜日の午前にCurzonのBloomsburyで見ました。メンバー向けのPreview。
原作はJames Baldwinの同名小説で、監督・脚本は”Moonlight” (2016)のBarry Jenkins。

舞台は70年代初のNYで、時系列はばらばらで流れていくのだがTishのナレーションに導かれてそんなに違和感なく繋がっていく。 大きなポイントは3つくらいあって、幼馴染として育ったTish (KiKi Layne)とFonny (Stephan James)が互いに意識するようになって恋人になるまでと、妊娠したTishがそれを獄中のFonnyと両親に告げてうわーってなるとこと、なんでFonnyが牢屋に入れられて、そこから出ることができないのかっていう苦闘に苦悶に、ていうのと。

Beale Streetはメンフィスにある通りの名前で、冒頭の字幕でJames Baldwinの文章が説明してくれるのだが、ブルーズとかいろんな歌に – Joni Mitchellにも - 歌われてきた - 日本の演歌だとなんとか海峡とかなんとか横丁とか何丁目とか - 大量のエモとか涙がぼうぼうと流れては消えていく、その象徴的な地点であり経路でありその名前である、ということでよいのかしら。

TishもFonnyもごく普通に一緒に育って恋をして幸せだったのに、なのにFonnyはやらしい警官の言いがかりをまる被りしてレイプ犯に仕立てられて牢屋に送られ、家族はみな彼の無実を信じて疑わないのだが、Tishが妊娠したことをきっかけに動きはじめる。Tishの家族は心の底から喜んで、Fonnyの母は結婚してないのにぜったい許さん、となり、Tishの母Sharon (Regina King)は、Fonnyの冤罪を晴らすべくレイプ被害者の女性に会いにプエルトリコに飛んで、父親ふたりはそれらの費用を作るために闇仕事を始めて。

表面だけみれば降りかかった困難になんとか立ち向かおうとする家族と、ぜったい負けずに握った手を離さず愛を貫こうとするカップルのメロドラマ、だと思うのだが、そういうのが古典的に浮かびあがらせようとしてきたハンカチぎゅうの悲痛さはあまりない。というか作者が描きたかったのは刑務所の面会所のガラス越し電話線を伝ってBeale Streetの方にとめどなく流れこんでいって途切れることのないふたりのお喋り(talk)だったのではないかしら。

“Moonlight”が主人公が通過していくそれぞれの年頃を通して、全体にちくちくと生き辛い痛みのトンネルを抜けながらだんだん透明になって最後に月明かりに包まれていく、あの大きなうねりに身を委ねる感覚 - 決して楽ではないしないに越したことはないのになんで – はここにもある気がした。そういうのがあったからこそのここまで、なんて言うべきではない。なにがあろうと起ころうと何十年かかったってひとつの思いは貫かれてどこまでも行くのだって。

なんとなくJohn Cassavetes の”Love Streams” (1984)、あれは裕福な白人の支配者階級の腐れた魂が自分で勝手に壊れて傷だらけになっていって、それでも愛は流れていくのよ、とかのたまっていた変なやつだったけど、あのコメディを歴史の垢も含めて被害者側に反転させたもの、ていう気がしないでもない。

差別(意識)が連鎖して伝搬して社会を分断してその端っこに置かれた人たちはどんどん隔離されたり追いやられたりで、それでもなお溢れかえってきてその手を放そうとしない思いというのはあるのだ、と。その決意はどこまでも瑞々しくて力強くて負けないんだから、ていうのを耳元でずっと囁いている。

言うまでもないことだけど、そういう描き方をしているものなので、70年代のNYのお話し、で片付けておわり、のようなものではなくて、これは今の、現代のお話しだし、そうとしか思えないし。 そういうふうに見るんだよ、差別をただの嗜好だとか思っている、レイプしても罰せられないでのうのうとしている人たちでいっぱいで腐ったにっぽんのー。

“Moonlight”もそうだったけど俳優さんの顔がすばらしくよいの。そのまま肖像画になりそうな強い輪郭があって、彼らが互いを見つめる目とその切り返しだけでじゅうぶん映画になってしまうかんじ。 70年代の若者の顔であるようで今を生きる若者のそれなのだと思った。

あと、”Moonlight”でもそうだったNicholas Britellさんの音楽がすばらし。

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