2.18.2019

[film] Burning (2018)

11日、月曜日の晩にCurzonのBloomsburyで見ました。

村上春樹ものを見るのは”Tony Takitani” (2004)以来(NYのAngelikaだった)で、原作の『螢・納屋を焼く・その他の短編』(1984) は出た頃に読んだ - あの頃は出るとふつうに読んでた - けど、筋は見事に忘れている。 納屋を焼くところが出てこなかった、とこを除けば。

日本では「劇場版」と付いていて、NHKが放映したTV版もあるらしいがそっちはもちろん見ていない。

現代の韓国の街中で、Jong-su (Ah-in Yoo)が同じ村にいたHae-mi (Jong-seo Jun)と会って(整形したからわからなかったでしょ、という)、彼は作家になりたいこととか彼女はアフリカに旅にでるとかいろんな話をして、旅で不在になる間に飼い猫のBoilに餌をやってほしい、って頼まれて彼女のアパートに行ってセックスして、でも彼女がいない間、アパートに行ってもBoilはなかなか現れてくれないの(で自慰して帰るだけ)。 

やがてアフリカから戻ってきた彼女は現地で知り合ったというBen (Steven Yeun)と一緒で、Benはとても洗練されててなにやって稼いでいるのかわからないけど洒落たアパートでしょっちゅうパーティとかやっていて、Jong-suはHae-miはBenに取られちゃうんだろうなー、とか思いつつどうすることもできなくて、やがてBenは納屋、というかビニールハウスを焼く計画をJong-suに打ち明けたりするのだが、これも一体どうしろと、みたいなはなしで。

もういっこ、Jong-suが頻繁に実家に行かなければならない理由は、彼の父親が暴力沙汰を起こして収監されて裁判している(間に家畜の世話とかしないといけない)からで、法廷で父の突発的な暴力衝動のことを聞いても、これもどうしろっていうの、というしかない世界で。

Jong-suはフォークナーのような作品を書きたいとか、”The Great Gatsby”への言及があり、TVではTrumpの愚行蛮行のさまがずっと流れていて、アメリカ的な豊かさとそれがもたらすぼんやりとした格差が基調音としてあるような。

それはかつて村上春樹が描いた80年代的なアパシーとか無力感(そんなもんさ)の背後で進行したり浸食したりしていく不穏ななにかと似ているようでやはり違っていて、あそこで焼かれようとしていた納屋とは焼き方も納屋のありようも違っているように思われる。

Jong-suが頻繁に人の家の棚や引き出しを開けて見つけたり見つけようとしたりしている何か - この映画での納屋は明らかに何かがしまいこまれたり囲い込まれたりした空間で場所で、これに対して原作の納屋はもう少し観念的で漠とした想念が向かって漂う場所 - たんなる穴のような - でしかなかった気がする(ま、ちゃんと読み返さないとわかんないか)。

ラストの決着のつけ方 - ああなるんだろうな、ということがだんだん見えてくる、というのはこの映画の場合はよいことで、主人公が最後にああいうことをするのもわかるのだが、ここで着目すべきとこは、結末がどうとか原作との相違とかよりも、何が何の喩えになっているかとかよりも、”Burning”という状態に向かって画面上の光や温度、体温がゆっくりと変化し上昇していく、そのちょっと不可解な様がスリリングに描かれているところがよいのではないか。

その描き方が近代アジアの風景のなかにあることで、欧米の人たちが – 例えば “The Handmaiden” (2016)と同じように? - 絶賛したのもなんとなくわかる。 アジアのなかのにっぽん人からすると、70年代のATGにあんなような鬱屈したのって、いっぱいあった気がした、けど。 ただその描き方はこっちの方がどこまでもドライで視線が交わらなくててんでばらばらで得体がしれなくて、その掠れたとこが素敵だと思った。

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