2.14.2019

[film] Blowup (1966)

3日、日曜日の晩、BFIのAntonioni特集で見ました。
上映前にRon役で出演しているPeter Bowlesさんによるイントロがあった。『欲望』。
これ、見たことなかった。日本だと某評論家のおかげでYardbirdsが出て来てJeff Beckがギターをぶっ壊す映画としか紹介・認知されてこなかった気がする。ほんともったいなかったわ。

原作はフリオ・コルタサルなのね。

イントロのPeter Bowlesさんの話 - Antonioniが英国で映画を撮る、というのは当時のロンドンの若い役者たちにとっては大騒ぎの大事件で誰もが – Terence Stampとか - 出演したがって、結局シェイクスピア役者として頭角を現していたDavid Hemmingsが主役になり、自分も役を貰えたのでよかったのだが、自分が登場して喋るシーンが最初に貰った台本と直前のそれでざっくり削られていて、そこで削られたスピーチの内容が映画全体にとってぜったい重要な内容だと思ったので、Antonioniに直訴した、と。当時のAntonioniは絶対君主だったので直接話すことも大変だったようなのだが、とにかく時間を貰えて、あなたがあの部分を削除したのは間違っていると言うと、監督はPeter、君の言っていることは全く正しい、でもな、あのスピーチを入れてしまうと映画の全てがきれいに整合してわかっちゃうのだよ、と言われたので返しようがなかった、と。 他には尋常ではない色(トイレの壁紙とか)への拘りとか。

Swinging Londonでざわざわしているロンドンで売れっ子の写真家のThomas (David Hemmings) - モデルはDavid Baileyだって – がいて、モテモテだし忙しい日々ででもふらっと車で外にでて骨董屋行ったり公園に行ったり、公園でぱたぱた写真を撮っていると若い女性と初老の男性が会っていて、スタジオに戻って現像して引き伸ばしてみると一見わからないけど銃とか死体のようなものが写っているので、これはやばいかも、になる。

そのうちあのとき公園にいたという女性(Vanessa Redgrave)が現れてフィルムを渡せ、というのだが彼もすんなり渡すわけはなくて、その後で公園にいったらやはり死体はあって、ても後で行ったらそんなものはなくて、すべてはそんなふうに、彼が目でみたもの、カメラが写したもの、それがブローアップされたもの、そのイメージが喚起してくるなにか、そのイメージについて語られるなにか、イメージを捕捉したり確かめたりしようとする動き - “Stroll on” - の間で揺れて、捕まえようとするとするりと逃げて、どこまでいってもそのもの、事象に到達することはできないように思えて、それってどういうことなのだろうか、と。

有名なYardbirdsのシーンもJeff Beckがぶち壊したギターのネックは、道端に置かれてしまえばただの木の破片でしかない、そういうゴミや瓦礫と紙一重のなかで瞬間を切り取って、それがお金や名声に変わって、みんなそれでわーきゃー言っている。 というその脇を革命を夢見る若者たちのデモが通り過ぎていく。

あの時代のロンドン、ということで起こりえたお話なのか、あるいは異国で、初めて全編英語で、スタッフも違うところで、改めて自分が撮るという行為とか、なにを撮ろうとしているのか、などについて考えてみた、ということはあるのか。そんな単純ではないか。

どうでもよいことだけど、David Hemmingsて、たまに若いときのMark E. Smith に見えることがあってね。

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