2.10.2023

[theatre] MET Opera: The Hours (2022)

2月4日の昼、東劇で見ました。
日本のタイトルは『METライブビューイング: ケヴィン・プッツ《めぐりあう時間たち》』

Metropolitan Operaは92年にFranco Zeffirelliのプロダクションの”Tosca”を初めて見て、なかなかの衝撃を受けて90年代の中頃くらいまで集中して(右も左も状態だったので)メジャーなのばかり見て、途中からバレエの方に興味が行ってしまったものの、寒さに震えながら窓口に並んだこともいっぱいある相当に愛着のあるシアターで、だからストリーミングなんて.. だったのだが、これは別かも、と。

Michael Cunninghamによる同名小説(1998)~『めぐりあう時間たち』、これを原作とするStephen Daldryの同名映画(2002)の両方にインスパイアされてMETが製作したオペラで、METにとってはRenée Fleming – METに通っていた頃、彼女はぴかぴかのスターだった - の5年ぶりの復帰、という話題もあるそう。
作曲はKevin Puts、リブレットはGreg Pierce、演出はPhelim McDermott。

Stephen Daldryの映画版は、脚色がDavid Hare、音楽がPhilip Glass、主演の(ひとり)Nicole Kidmanはオスカーの主演女優賞を獲って、こないだ改めて配信で見直してみたが、やはりすばらしかった(とても好きな1本)。映画の方はPhilip Glassの多重で多層な音を接着剤として3つの時代と場所をつなぎ目なしに繋いでいって、どんなに繋がっていたって人はみんな悲しい~(どうせ死んじゃうし)、というただの事実を放りだしてくる。この絶望に近い、かといって落ちこむこともない低体温の温度感が舞台、それもオペラだったらどう表現されるのか、など。

1999年のNY - マンハッタンで編集者をやっているClarissa Vaughan (Renée Fleming)と、
1949年のLAでどんより主婦をしているLaura Brown (Kelli O’Hara)と1923年の英国リッチモンドで小説『ダロウェイ婦人』を書こうとしている作家Virginia Woolf (Joyce DiDonato)、この3人のある一日を描く。(松竹のサイトにある年代は映画版のやつではないか? 映画版の設定だと最初に1941年 – Woolfの自殺した年、1923年、1951年、2001年)

映画版ではそれぞれの時代の登場人物の動作がぱたぱた自在に重ねられ連なっていったりしたが舞台でそれは無理なので、向かって左にClarissaの、真ん中奥にLauraの、向かって右にVirginiaのセット、というか場所(” A Room of One's Own”)があり、それぞれにその時代やそこで囲まれているものが構成するカラーのようなものがあり、でも出来事ややりとりは舞台の真ん中で起こり、局面によってはそこに大勢のシンガーやダンサーが群がって静かに波を起こす。更に、たまに男性のカウンターテナーが天使のように寄って歌声を添える。

Clarissaは作家で詩人で長年の友人Richardの授賞記念のパーティを開こうと花を買いに行くところから、LauraはLAの大きな一軒家で息子のRichardと一緒に夫の誕生日のケーキを焼こうとしていて、Virginiaは何度目かの自殺未遂のあと、新たな小説”Mrs Dalloway”を書きだそうとしているがうまくいかない。このすべてがどこかつっかえてうまくいかないかんじがそれぞれを鬱とか死に向かわせる or 夢見させる。(Clarissaだけはちょっと別の位置にいて、例えば映画版でVirginiaが“Someone has to die in order that the rest of us should value life more.”といい、Clarissaが“That is what we do. That is what people do. They stay alive for each other.”という、そんな違いが)

この感覚 - 朝起きたり夜寝る前に死んでしまいたい/死んでしまおう – と思い、そのうちやってくる出来事や人に対してすべての意識がここを中心にぐるぐる絡み取られ囚われてしまうかんじ、その時間(The Hour)がテーマなのだと思ってきたので、このような各個人の頭の中で反響しつつ閉ざされていくようなものをどうオペラの舞台上で表現するのだろうか、と誰もが思いそうな難題に正面からぶつかって、ある程度は成功しているように思えた。

ある程度、というのは、舞台上でそれが複数の声として重ねられてしまう以上、孤独な内面の声として閉ざされることはないので、そこに到達することはできないのだ、ということ。 でも他方で、そういう状態をそこらじゅうにあるものとして(だってあるじゃん)大っぴらにさらすことはできる。ここに希望とか共有とか、そういうのが持ち込まれたら台無しになったと思うのだが、そこまではせずに、VirginiaとLauraの、LauraとClarissaの声/歌や嘆きをひとつの舞台上で重ねることができる。Virginiaの書いた本の言葉がLauraに読まれて反芻され、それをRichardが眺めてClarissaに愛をこめて吐きだす、その時を隔てた連なりが人の波とその声によって形をつくる。

おそらく、もちろん、人によってその聴こえ方、見え方は微妙に異なってくるだろうし、配信の画面ではっきりと見える登場人物たちの表情が、あそこの客席から見たらどうか、というのはあるだろうが。あと、音楽劇としてみたとき、テーマの反復はあってその場は盛りあがるけど、後に残らない弱さと軽さはどうしてもある、かな。身も蓋もなくエモを揺さぶる旋律でもうねりでも、あってもよかったのでは。

Virginia Woolfの衣装がよかった。映画版の不満のひとつは「死にたい」ばっかり言っている彼女のいでたちがなんであんなにおしゃれなのかしら、ということだったが、今回のはとてもイメージに近いかも。

舞台でLauraが読んでいる”Mrs Dalloway”はVanessa Bellが表紙を描いたHogarth Press版のように見えた(けどちょっと違うような)。映画に出てくる本は、アメリカの普及版というかんじ。どうでもいいけど。

もう3年以上前になるけど、Monk's Houseに行った帰りに、Virginiaが自殺をした川にも寄ったの。また行きたいのだがMonk’s Houseは4月までCloseしてるんだ…

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