2.06.2023

[film] 流転の王妃 (1960)

1月24日、月曜日の晩、角川シネマ有楽町の『大映創立80周年記念企画 大映4K映画祭』で見ました。

邦画のなかで大映のいくつかのカラー作品はどんなのでも無条件で見たいくらいに好きなのだが、この特集はなんでか(時間割かな?)つめるのが難しい。かなしい。

2021年のTIFFで平日の昼間にしかやってくれなかったリストアされた田中絹代監督作品、その後に拾っていったもののこの1本だけはなかなか見れなかったやつを、ようやく見ることができた。鎌倉まで行ったりしながら、これでようやく彼女の監督作品すべて見ることができた。(こんなのおかしいよ)

愛新覚羅浩(あいしんかくらひろこ) - 嵯峨浩が自身の - based on true event - でベストセラーとなった原作 - を脚本-和田夏十で(登場人物名は実際から変えられている)。英語題は”The Wandering Princess”。原作、監督、脚本、主演すべてが女性による女性映画。

スチールの衣装とタイトルから『お吟さま』(1962)のような時代劇かと思っていたらぜんぜん違った。

冒頭、地面に横たわって亡くなっているらしい若い女性とそれに覆いかぶさるかのように悲嘆している(と思われる)女性 - 母だろうか - がいて、そこから回想シーンに入る。

お屋敷に暮らす女学生で見るからにお嬢様の竜子(京マチ子)は、絵を習っているらしく、次は油絵に行ってみましょうって先生に言われた! と祖母(東山千栄子)に報告したり楽しそうなのだが、彼女の父(南部彰三)と母(沢村貞子)は軍部の偉そうで嫌なかんじの役人の訪問を受けて、竜子と満洲国皇帝の溥文(竜様明)の弟との縁談を持ちかけられ、皇族である菅原家が満洲の王族と婚姻関係を持つことが両国間のこの時局においては..  云々高飛車に言われて、もう逃げようがない。 竜子は最初は当然泣いて、でも相手の溥哲(船越英二)とお見合いはして、親からも軍からも「あくまでも個人の意向に委ねますが」とか言われつつひっくり返せるわけない(というクソみたいな状況をすごくうまく描く)ので、式は国事として執り行われて、彼女の満州での新婚生活が始まる。

初めのうちは皇帝と皇后(金田一敦子)のもとに通されてロイヤル・ファミリーの生活かと思いきや、あてがわれた新居は原野の真ん中の寒そうな一軒家で、それでもふたりは木を植えたり、生まれてきた娘を一緒に育てたり幸せそう(幸せになろうとしている)で、でもやがて戦局が変わって日本軍-満洲国が危うくなってくる気配がひしひしと。

ここから先は溥哲が軍に連れて行かれて離れ離れの行方不明になり、竜子は娘の英生(実際には娘はふたりいて、連れていたのは次女だったそうだが)を抱えて、他の日本人や満州人と共に襲われては逃げ、収容されて移送されてを繰り返す日々となる。この辺の悲惨さは事情はまったく異なるものの原節子の『最後の脱走』(1957)と同じようなかんじを受けて、娘のこと以外はすべてのことを抑えて堪えて声を出さず、でも必死に、生き残ることだけに注力してひたすら我慢している。ようやく帰国の船に乗ることができて日本が見えてもよろこびは半分 – だって自分を酷い目に合わせた国だよ - のような。

他人が敷いた運命のレールに乗せられ、大陸を引き摺り回され流転していく王妃の悲劇を、自分がこれまで見てきた豪勢で奔放で無敵な京マチ子とはまったく異なる(結果として無敵ではあるけど)彼女が演じている。そしてこれを田中絹代監督作の3作目以降の流れ - 『乳房よ永遠なれ』(1955) 〜 本作 〜 『女ばかりの夜』(1961) 〜 『お吟さま』(1962) - の中に置いてみると、社会階層での上とか下はあるものの、そういうのを括弧で括って、悲運(自分のせいじゃないのに)と絶望のなかに身を置いて晒しながらも、とにかく懸命に生きる/生き残ろうとした女性のありよう - それを「強さ」と言ってしまうのは安易にすぎる - を見つめようとした視線がはっきりとある。情感に訴えるようなところ(クローズアップとか泣きとか)は避けて、同じテンポでなにが起こるのかを静かに見つめているような。そして、そうやって最後に現れるのが巷では「愛」と呼ばれていそうななにかで、でもそこもあえて問わずに置いておく。

かんじとしては『お吟さま』に近い、あれより遥かに過酷そうだけど、でも「翻弄される」とか言われがちな女性の生の「なにが」「どこが」「だれによって」を堂々とクールに見つめて描いていてすばらしいと思った。

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