2.15.2023

[film] Babylon (2022)

2月12日、日曜日の午前、109シネマ二子玉川で見ました。IMAXレーザーででっかい糞尿を、というのも少し考えたがそこまでしなくても、と普通のスクリーンで。3時間を外で潰したくないのなら家で配信で – でも画面が小さすぎてもごちゃごちゃ過ぎてなにがなんだか、になるかも。むずかしい。

この“Babylon”も”Empire of Light”も作る側、受ける側の違いはあるけど、どちらも20世紀の「帝国」についてのお話で、どちらも人の生死を扱っている。(それがどうした)

既にあんな人もこんな人もみんな批判したりしているし、それぞれそうだよねえ、しかないのだがなんか書いてみる。いちおう、眠くはならないし退出する気にもならなかった。ただ終わってから3時間の肥溜めに浸かっていたようなかんじがじんわり、くらい。

上映前に「権利上の都合で一部に字幕が出ない箇所があるけど不具合ではないよ」 っていう表示がでる。これぞ”Babylon”、なんだわ(… どうでもよい箇所だった)。

Manuel “Manny” Torres (Diego Calva)が砂漠のなか生の象さんを運んでいて、ひいこらしながらお屋敷に運びこむと阿鼻叫喚のパーティが進行していて、女優になりたくてNJからやってきたNellie LaRoy (Margot Robbie)とか人気俳優のJack Conrad (Brad Pitt)が紹介され、でもそんなのお構いなしに雪崩のようなパーティは続いて、そのなかで死んでしまった女優の替わりにNellieに声が掛かり、JackはMannyに抱えられて家に戻る。 ここまで、30分以上経ってからタイトルがでっかくでる。

サイレントからトーキーに移っていく時代の変わり目、サイレントで膨れあがって爛熟期にあった産業のありようが冒頭のパーティの大騒ぎに集約されて、その宴の後、のようにトーキーの現場ではやり方や様子ががらりと変わって産業化・近代化され、そこにうまく順応するもの、適応できずに消えていくものいろいろ、かつて一世を風靡したJackには声が掛からなくなり、なんとかしがみついていたNellieはずるずる落ちていき、便利なラティーノとして使われていたMannyももう手に負えなくなっていくさまを撮影現場の様子と共に描いていく。

エピソードの重ねようはKenneth Angerの古典”Hollywood Babylon”から、登場人物もJohn GilbertとかClara BowとかAnna May WongとかDorothy Arznerとか実在した映画人への参照がいっぱいあるので、実際にかつてのハリウッドで起こったことを元にした歴史ドラマ、と見るのが正しいのだろう。そしてそんな変わり目〜栄枯盛衰を描いて、更にそれを1952年の時点からMannyが改めて振り返って泣く(あの1本でなんであんなに泣けるの?)、という構成をとっているのであれば、なんでこんなことになってしまったのか、の考察とか説明がないのって、あんまりではないだろうか。

リスペクトがない、とか年寄りくさいことを言うつもりはなくて、シンプルにわかんないのではないか、って思うの。なんでMannyやNellieはハリウッドを目指してそのサークルに入ろうと躍起になったのか、なんで彼らはそこから弾かれていったのか、なんでMannyは52年にあの映画を見て大泣きしたのか(←いまだにわかんない)。映画製作への夢とそれを実現しうる産業と資本があり、その構造が変わって、でもそれだけではない何かがあった/見えたからではないのか?

サイレント映画をいろいろ見る機会が増えて、それは見れば見るほど底なしの恐ろしい(きりがない)世界で、その後のトーキーのもプレ=コード時代のも、ものすごいことを達成し続けているのを知った(きりがない)。 そういうのをぜんぶなんとなく「映画」・「映画愛」みたいので括って人がわらわらモッシュしているなかに描くのって、とっても薄くて不誠実ではないか、そんなのITバブルの金勘定に浮かれていた連中と変わらない。歴史はそんなにシンプルなものじゃないし、映画が作ってきた表象にはとびきりの光とか美とか醜とか正義とか悪とかが現れていて、そのありようってそれまでの芸術が追ってきたそれらとははっきりと異なるなにかだった。その衝撃が画面から伝わってこない。こんな程度で”Babylon”て呼ぶのは100年早いわ。

もちろん、Damien Chazelleはそんなのわかっていて、そこも含めて描こうとしたのだろうが、フォーカスしていくのはやけくそみたいな糞とかゲロとかばっかりで、なんでかというと、やっぱりパワーとセンスがなかったから、としか言いようがない。 それか、げろげろのひどいシステムだったことに対して? でもゲロで済んでしまうのなら体制側にとってこんなに楽な話はないの。夢の裏返しとしてのゲロ - 「いいね」と同じ。

同じ映画史を扱っていても、“Nope” (2022)がどれだけ鋭いやつだったか、改めて噛みしめてみよう。

パーティのシーンだけみても、Baz Luhrmannのように(”Moulin Rouge!” (2001)と”The Great Gatsby” (2013))群衆を描けていない。90年代のPVで描かれるモッシュみたいに暴力的な粗さと雑さがあるだけで、惹かれない - あれを見て誘蛾灯のように吸い寄せられることなんてない、そういう弱さとか。

あと、動物全般に対する愛がないわ - ヒトに対してもそうか。 でも、ガラガラ蛇があんなふうに、あれだけの時間喉元に喰らいついたらふつう死ぬよね。(ここ、笑うべきシーンだったのかしら?)

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