8.04.2022

[film] 都会の横顔 (1953)

7月26日、火曜日の夕方、国立映画アーカイブの東宝特集で見ました。
英語題だと”TOKYO PROFILE”って最初に出た。監督は清水宏で、このタイトルなら間違いないはず、とか思って。

冒頭、道端に人だかりができていて、寄っていくとひとり女の子の迷子がいて、靴磨きの女性(有馬稲子)が彼女にいろいろ聞いていくと、自分の名前(みちこ)もはぐれたお母さんの名前(としこ)も銀座に何しにきた(お買い物)のとかも落ち着いてはっきり返していて、泣き喚いたりもしないので、慌てなくてもだいじょうぶか、ってそこに居合わせた広告看板を持って宣伝で歩いている男(池部良)が、仕事でどうせその辺歩いていくから一緒に連れていくわ、って彼女を引き取って並んで大通りを歩いていく- カメラは彼らを正面に後退りする - と、途中でいろんな知り合いに会って、交番にも迷子を預かっていることを伝えて歩いていくのだが、見つかりそうで簡単には見つからないのと、女の子は彼女の見える範囲で目にとまった人に半自動でくっついていってしまうので、じきに池辺良からは見えなくなって、それと入れ替わるように困っておろおろしている母親(木暮実千代)とか、ちっとも探すのに協力しているようには見えない勝手そうな友人 - 沢村貞子 - たち(木暮実千代と沢村貞子に放置されてもへっちゃらな女の子すごい)とか、道端のへんな占い師(伴淳三郎)とか、女のことしか考えていなさそうなそわそわきょろきょろした会社員(森繁久彌) - 森繁って『東京の恋人』(1952)でも同じような役じゃなかった? - とか都会の街角にしかいないような人々が次々と現れては消えていく。

そんな人々の群れを流していく銀座の数寄屋橋のあたりとか、ミュージックホールがあったあたりとか、いろんな飲食店、もちろんデパート - 三越と松屋と両方でてくる? とか、これまでいろんな昔の映画で見ることができた戦後の銀座の賑わいが目の前にちょっと異なるパースペクティヴで広がっていて、入り組んだ路地とかはなく大通りがほとんど、歩道がちゃんとあるので、行き交う人々を追っていればそのうちぶつかりそうなものなのに、なかなか見つからなくて手強い。

やがてここにやってきた母娘の目的 – みちこちゃんにちゃんとした靴を買ってあげたくて – とその難しさが迷子の件以上に母親には重くのしかかっていることがわかって、最後の方では万引き騒動まで起こしてしまうのだが、そうやってうまく纏まらずになすすべもなく解れたり壊れたりしていったなにかが、最後にどうにかなって悪くなかった - というあたりはいつもの清水宏かも - 魔法とか奇跡というほど強いものではない、近代になって強引に負わされた面倒なあれこれを少しだけやさしく解いてその後ろ姿を暖かく見送ってくれるようなー。

でも上映中はその辺の人と人の間に起こるほっこりを見ていく、というよりは画面を食い入るように見つめて、ここはあそこ? とかあそこに映っているあれっていまは? とかそっちの方に没入してしまうのだった。これってNYやロンドンの昔の映画を見る時にも起こるのだが銀座もそういうことができる数少ない街だと思う - 渋谷でも新宿でももうとても無理だし。

女性と子供の映画、でもあって、ここに出てくる池部良も森繁久彌もすごく線が細くて弱いし、『東京の恋人』の三船敏郎みたいのが入ってくる余地はなさそうな。あと英会話教室をやっているトニー谷の英会話のすさまじさ - “AT TODAY NO MORE SHOW” →「あとでのみましょう」ってなんなの? (あれなら毎日通いたい)

あと、有馬稲子が靴磨き仲間の男の子に「あとでよし田のコロッケそば奢ってあげる」っていうの。いまのコロッケそばは軽く奢ってあげられるような値段じゃなくなっちゃったけどねえ。

木暮実千代って、情に厚い母親のように描かれていて、ここでも最後はよいかんじになるっぽいのだが、『香港の夜』(1961)でも娘を中国に置いてきちゃったし、離れるときは案外冷たく突き放しちゃうのかも。その後で悶えて嘆くのかも。

Tokyo Profile - で写真集を出すとしたら誰がメインになるかしら? Erwitt? Doisneau?

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