5.30.2022

[film] 明日は日本晴れ (1948)

5月21日、土曜日の夕方、国立映画アーカイブの企画『発掘された映画たち2022』で見ました。

「あすはにっぽんばれ」と読む。『蜂の巣の子供たち』(1948)に続く清水宏の戦後第2作で、製作の松本常保が設立した独立プロ・えくらん社の第1回作品で、作品の配給は東宝だったのになぜか松竹の倉庫から16mmフィルムが発見され、35mmにブローアップされた、とてもきれいなプリントだった。

上映後の解説 - 当時の記録によると原案はスタインベックの長編『気まぐれバス』 - "The Wayward bus" (1947)だったそうだが、この小説の内容とはぜんぜん別物らしい。

京都の山あいの山道をバスが進んでいく。運転手は清次(水島道太郎)で車掌はサチ(三谷幸子)、車内はすし詰め、という程ではないが立っている客が結構いて、タバコを吸おうとして注意されたり無賃乗車の「浮浪児」が追い出されたり、みんなそれぞれにストレスを抱えた道中になっていて、バスの調子もよくなくて何度か停まって運転手が下に潜って、こりゃ簡単に直るようなもんではないぞ、とか言っていると完全に動かなくなっちゃって、どうするんだよ? ってとりあえず坂の中ほどの空き地のようなところまで乗客全員で押して持っていく。

ここからどうするか、は電話もないので通りがかった車とかに連絡してもらうしかない、いつになるかはわからない、というので急ぐ何人かは歩いていったりする - 車掌はちゃんと運賃を返す - のだが、そこまでいそいでいない or どうでもええ、の乗客たちはぶつぶつ言いながらそこに残る。

盲(だけど乗客の人数をあてたり不思議な能力をもつ)の按摩(日守新一)とか、「おし」で「つんぼ」の老人とか、片足のかつぎ屋とか、サングラスをしてちょっとモダンなワカ(国友和歌子)とか、戦争で亡くなった部下の遺族をまわっている元上官とか、誰もが戦争によって傷ついたり、なにかの事情を抱え込んでいたり、そんな人たちが居合わせて顔を見合わせて話したりして、またそれぞれの旅に戻っていく。

サチは清次のことがちょっと好きなので、この状態がずっと続けばいいと思っていたり、でも清次とワカの間には昔なにかあったらしいことがわかったり、誠実そうな元上官だけど、足を失ったのはあんたのせいだから、って詰め寄ったり、ほんの数時間の故障があって、たまたまそこに居合わせて立ち止まっただけでそれぞれの人にいろんなことが起こったりわかったり、その後の日々はその前と違ったものになったのかどうかしら。

最初の方で追い払われた浮浪児が最後にちゃんとまた戻ってくるとか、いいの。

舞台劇にしてもおもしろくなったかも。清水宏のこの次の『娘十八嘘つき時代』(1949) もめちゃくちゃおもしろそうなのでどこかで発見されますように。


風の中の子供 (1937)

5月6日の昼、神保町シアターの特集『子役の天才!戦前・戦後の日本映画を支えた名子役たち』で見ました。
監督は清水宏、朝日新聞に連載された坪田譲治の同名小説の映画化。

父親(河村黎吉)と母親(吉川満子)、兄の善太(葉山正雄)と三平(爆弾小僧)の兄弟の4人家族がいて、善太は成績優秀のよいこで、三平はそうではないガキで川で遊んだり子供たちを束ねてわーわー暴れたりしたりしているのだが、父が工場の私文書偽造容疑で連れていかれてしまうと家族はがたがたになって、三平はおぢさん(坂本武)とおばさん(岡村文子)のところにひとり預けられる。

三平は帰りたいよう、って川下りをしたり町に来ていた曲馬団についていったり行方不明になって、ひと騒動持ちあがるのだが、その騒動というのは、ただの我儘とか無軌道な野生児のそれ、というよりも故障して止まってしまった家族を結果的に元に戻してしまう。もちろん彼はそれを願ったかもしれないけど、狙ったものではない、ただ勢いで駆け抜けたらなんか渦とか風が起こってそうなった、そんな描き方。子供っていうのはそんなことをしでかす可能性のある動物 – 走って動いていくやつなんだよ、みたいな。

何度か繰り返される通りの奥の方に走って消えていく子供たちのイメージがすばらしい。
清水宏の子供の世界って、矢野顕子の『ごはんができたよ』(1980) で歌われている世界だと思っていて、それをこの40年前に歌うように作っていた清水宏ってすごいの。

もう5月もおわりだって..
 

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