5.21.2022

[film] Eureka (2000)

5月14日、土曜日の午後、テアトル新宿で見ました。デジタル・リマスター完全版 - 3時間37分。

はじめはセピアトーンモノクロームの画面が繊細ですばらしく - モノクロームで撮影したものをカラー・ポジにプリントしているそうで、途中でほんの少しだけ青が射す瞬間があったり、最後にラルティーグのような淡いカラーに至る - その繊細な画面の肌理に織り込まれているかのようにずっと響きながら音の壁をつくる蝉の声があって、いつまでも見ていられる。5時間続いてもへーき。

最初に公開された当時はアメリカ行きの準備で見る時間が取れなくて、NYでもロンドンでも見る機会は何度かあったのにこれまで見る機会を逃していた。第53回カンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞他、いろんなところでいろんな賞を。

1992年のうだるような夏、福岡の田舎で、まるで絵に描いたような白い服の母親(真行寺君枝)が手を振る白い洋風の家 - から出てきた中学生の兄- 直樹(宮崎将)と小学生の妹 - 梢(宮崎あおい)が通学の路線バスに乗って、その運転手が沢井(役所広司)で、バスは途中から乗ってきた会社員風の男(利重剛)に気が付けば乗っ取られて、沢井と兄妹以外は、犯人も含めて6人が射殺され、沢井は運転手をやめて土方になり、兄妹は言葉などを失って自宅に引き籠る。

そこから2年が過ぎて、沢井の妻(国生さゆり)は彼から逃げるように出ていって、兄妹の母もいなくなり父も事故で亡くなり、たった2人でゴミの中で暮らす兄妹を見た沢井は彼らの家に移ってきて一緒に暮らし始めて、そこに兄弟の従妹だという秋彦(斉藤陽一郎)が加わり、やがて4人は沢井の運転するバスに乗って旅にでる – なんでそんなことをするのか、なにを求めているのか、理由はもちろん示されない。

“Helpless”で描かれた1989年の夏から登場人物も含めて繋がっている世界で、あの映画で「なんで生きてるんだ?」-「なんで死んでるんだ?」- パーン - って乱暴に怒りを込めた拳銃とフライパンでもってぶちまけられた生と死の境い目とかそういうのに関わる問いを目の前の惨劇と共にダイレクトにひっかぶった子供たちは、「なんで殺してはいけないのか?」 - なんで生きなければいけないのか? の表裏 – という別のかたちの問いに囚われたまま宙を彷徨っていて、またしてもその答えがなんなのか、どこにあるのかなんて誰にもわかりやしない。有名な台詞 - 「生きろとはいわん、死なんでくれ」はこの謎に対する答えでは勿論なくて、説得力ゼロのただのお願いでしかないし、それを請う沢井はずっと咳をしてて死にかけていたりする。 誰かが死んだり傷だらけになったりしないと見えてこないような、そんなふうに何かが圧してくる世界なんて過酷すぎるし、こんな世界に誰がしたのか。

“Helpless”も浅野忠信がユリ(辻香緒里)をバイクに乗せてどこかに連れていく話で、主人公(たち)は父親を失ったり右腕を失ったり傷を負っていたが、ここでも同じようにひたすら道路を走っていくだけ、でもこれも”Helpless”も年長者が無垢な子供を導くような話では勿論ない。ユリも梢も主人公たちもこちらには一切心を開かず言葉も発しないまま、それぞれの見方でまっすぐ何かを見ようとしている。

バスジャック事件で犯人を射殺した警察の松重豊が地元で起こった通り魔殺人の容疑者として沢井を尋問する際にいう - お前はあの犯人と同じ目をしている - というあの目は“Helpless”の浅野忠信にも光石研にもあって、そんな彼らの目が見ているものと梢が見ようとしているものの間にある段差とか。

あるいは今回もうざい「一般人」としての振舞いをしまくって殴られて放り出される秋彦が常に携えていたポラロイドが即席で切り取る「現実」とか。

前半30分くらいのあっという間に始まってあっという間に収束する銃撃戦のサスペンスから後半のがたごとしたロードムーヴィーへと抜けていく構成も、そこに物語上の必然はなくて、かといってHelpless - Recklessなドライブでもない。ロードムーヴィーが何かを探し求めて走っていく姿をその「何か」も含めてまるごととらえようと探索する映画であるとすると、それが梢のちいさな声、Jim O'Rourkeのやさしい歌、そしてあの海辺で、”eureka..”って見出されてこちらに到達するまでにそれだけの距離と時間が必要だった、というだけのこと。

そして、そうやって見出されたなにかがなんなのか、勿論明示されないままカメラは宙に浮かんで風に乗って去っていく。

こうして約20年が過ぎて、911があって311があって憎悪による襲撃や殺害がどこでもふつうに起こるようになって、死は決してここで語られた寓話のように語られるものではなくなってきたと思うし、同じような残された者たちの幾千ものお話しが語られてきた気がするのに、この映画ほどこちらの痛点を探りあてて、刺しにくるような強さで迫ってくるものはない気がする。 90年代に希求された実存や孤独にまつわる「リアル」を巡るあれこれとはぜんぜん別の次元で - それってほぼ全部生き残った連中のひとり語りだし - この画面には「向こう側」から吹いてくるもの、この画面と梢たちが凝視して見出そうとしたものが奇跡のように調和しようと、そこにあるの。

例えば、”Jeanne Dielman, 23, quai du commerce, 1080 Bruxelles” (1975)の、彼女の生をじっと見つめる3時間22分もあれば、この映画のような3時間37分もある。自分にとって映画を見るっていうのは後者の方のような経験のことをいうのだと改めて。

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