5.13.2022

[film] Marx può aspettare (2021)

5月3日の晩、ユーロライブの「イタリア映画祭 2022」から見ました。映画祭、他にも見たいのいっぱいあったのだが… (いつものこと)。

邦題は『マルクスは待ってくれる』。英語題は”Marx Can Wait”。ルビッチの『天国は待ってくれる』をふつうに思い浮かべるが、こちらはやや重めのドキュメンタリーで、でもまったくぜんぜん関係ないかというとそうでもない気もした。

マルコ・ベロッキオが自分の家族について自省的に綴ったドキュメンタリーで、2016年の冬、故郷のエミリア=ロマーニャ州ピアチェンツァにベロッキオ家の面々が集まってきて、残念なことがふたつある – ひとつはみんなのパパがいないこと、もうひとつはマルコの双子の弟のカミーロがいないことだ、という。

68年のクリスマス、29歳だったカミーロの自殺は自分にとって、家族にとってどういうことだったのかを、存命する5人の兄と姉たち、カミーロの恋人の妹、司祭や精神科医との対話も含めて振り返っていく。ベロッキオの映画を貫いてある政治と個、個をとりまく家族や集団組織のありよう、そこから受ける傷とかそこにある錆とか、どこかなにかが機能していかないドラマの起源を見ることができるようだったし、実際に彼の過去の作品の断片も頻繁に挿入される。タイトルになったカミーロが言った「マルクスは待ってくれる」も”Gli occhi, la bocca” (1982) - “The Eyes, the Mouth”に引用されている(さらにこのタイトルはカミーロがマルコに言った最後の言葉だそう)。

ベロッキオ家は中流階級の堅実な家庭で、父は弁護士、母は敬虔な女性で、長兄が精神的に不安定だったせいもあり、双子の兄弟は割と自由に楽しい子供時代を過ごして、カミーロの容姿はマルコよりよかったのでいつも人気者で、でも大きくなると父親は彼に測量技師の仕事を与えた。この進路はカミーロの希望とは特に関係ないものだったのでこの辺から彼の不安と彷徨いが始まり、映画の世界で注目を集めていくマルコとも距離が広がっていった、と。

でも家族はこの辺、カミーロの生来の明るさもあるし、まさかあの子が.. って特に気にかけてはいなくて、唯一、彼の恋人だけが彼にのしかかっていた暗いなにかを感じていたことが明かされたりする。65年の『ポケットの中の握り拳』でイタリア映画界の寵児となったマルコがカミーロに政治や社会への関与について語った際にも「マルクスは待ってくれる」 - そういうのはもう少し後に考えたって遅くない – って彼は返した、と。

家族にとってものすごく辛い出来事だっただろうし、未だに傷は癒えていないのかもしれないのだが、首を吊ったカミーロを発見した時のエピソードなどにはなんともいえないユーモアもあったり、映画のようにその情景が浮かんでくる。同様にあの時にこうしていれば、という後悔や懺悔もそんなに滲んではいなくて – 最後、マルコが司祭の人に教えや救いについて問うとあなたはわたしが言おうとしたことを既に全部言ってしまっている、と – やはりマルクスは待ってくれなかったのかも .. 程度で、でも頻繁に映しだされるカミーロの肖像、カミーロと家族の像は確かにこちらに向かってなにかを語りかけてくるような。そしてその眼差しの強さ確かさ、というかその眼差しのありようは、これらを画面にぶっ刺すように刻んでくるベロッキオの映画そのもののように見えた – もちろん、これもベロッキオの映画なのだけど。

でもやはり、頻繁に挿入されていく彼の映画の断片を見ていると、あれもこれもぜんぶ見たくなる。

なんか、延々映画を作り続けた(続けている)マルコに、ルビッチの”Heaven Can Wait” (1943)で死ぬまで女性のケツを追いかけるのを止めなかったヘンリー・ヴァン・クリーヴが被ってくるの。境目にいるHis Excellency(閻魔さま)は彼を天国に送るか地獄に墜とすか- そんなのわかりきっているのだが。いやそんなことより、彼にはまだいっぱい映画を作って貰わないとー。 カミーロは待ってくれるにちがいないから。


なんど数えても週末がふつかしかないことにおののいている。こんなひどい気圧なのに..

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