5.15.2022

[film] Je tu il elle (1974)

5月5日の夕方、ヒューマントラストシネマ渋谷のChantal Akerman特集で見ました。

邦題は「私、あなた、彼、彼女』。これもおお昔の日仏の特集で見ている。
これの序章のような試作のような短編 “La chambre” (1972)という素晴らしい作品をロックダウン中に見て、これもできれば大画面で見て比べてみたかったかも。

モノクロで、床にマットレスが敷いてあるだけの部屋を固定で映し出す画面の枠のなか、「私」- 最初にここでこうしているのがおそらく「私」 - はひたすら「君」に向かって雑に - 想ったり考えたりしながら書いているようには見えない - 手紙を書いて、それを読んで並べて眺めて、砂糖袋からスプーンで砂糖をすくって舐めて転がって、を動物園の動物のように繰り返す。定点に固定されたカメラは動かずにぶつぶつと書いて & 舐めてを繰り返す彼女の姿を映す。

デビュー作の”Saute ma ville” (1968) -『街をぶっ飛ばせ』で自分ごとぶっ飛ばそうとしていた世界の総体をもう少し注意深く分解して行き着いた「部屋」という場所と世界の境い目、そこに留まって巣篭もりしてしまう「私」という奴とそいつがとりあえず鏡のように置いて睨みあう二人称の「君」という厄介者のありようって、例えばこんなにも自堕落でどうしようもなくて砂糖がなくなるまで舐めるのをやめない。← とてもよくわかる。

彼女は特に不幸そうにも幸せそうにも何かを求めているようにも見えなくて、他にすることもなさそうなのでただ淡々とそれを繰り返して砂糖がなくなったところでお腹がへったかも、と外にでる。

ハイウェイ沿いで手をあげてトラックに拾って貰い - 運転手とどんな交渉をしたのかは不明 - 眠くなったら後ろで寝ていいよ、って優しく言われた「彼」に拾われ猫のように懐いていって、一緒に飯場やパブに入ってご飯食べたり、彼がやってというので手で擦ってやってあげてから彼の家族とかの身の上話を聞いてあげたりする。そんな「彼」。『囚われの女』のArianeの原型のようになにもしない女。

それから「彼女」のアパートのドアを叩いて、「彼女」ははじめそっけなく「用事がすんだら帰ってね」とか言うのだが、気がつけばふたりで全裸になって絡みあっている。まったく果てのなさそうな、湿度粘度ゼロでひたすら互いの皮膚をまさぐって擦れ合わせて、でも納得いかないのか見えないのか擦ることで熱を探りあてようとしているかのようにひりひりした愛撫が延々と続く。

例えば、最初のパートは概観される日々の暮らしとか生活で、その次のパートが「仕事」としてやってくるようななにかで、最後のパートは「愛」のように語られたり括られたりするようななにかで、人生なんて凡そこんなもんじゃないのか、っていうぶっきらぼうで投げやりな目線を感じることができる。我々の生なんて、これらの間をぐるぐる回ってるだけだろ、っていうお手あげなかんじ、を外から静かに眺める。

では、ここに登場しない「私たち」とか「彼ら」はどこからどこにどんなふうに? という意識が出てくるのはもう少し後の方、”Les rendez-vous d'Anna” (1978) - 『アンナとの出会い』とか、ドキュメンタリーの頃になるのだろうか。 でもそれらが歓びや期待をもって語られることってほぼない気がする。

あと、彼女の「部屋」映画の流れだと、”La paresse” (1986)” - “Portrait d'une paresseuse” - “Portrait of a Lazy Woman”ていうのがあって、部屋でごろごろしているだけなのだがすばらしくよいの。

あと、映像として映し出されるChantalその人のなんとも言えない魅力もあるかも。そこで思い起こすのは同様に頻繁に自分の映画に登場するAgnès Vardaで、彼女はどこに行ってもムーミン谷の登場人物のような佇まいで世界を(よくもわるくも)ムーミンの世界に変えてしまうのに対して、Chantalはどんな土地でも場所でも一度猫のように座ると猫陣を張ってそこを彼女の「部屋」に変えてしまう、これもなんかの魔法なのかも。


ロメールの特集まで始まってしまったあの映画館、いっそのことアンスティチュ・フランセ東京が買い取っちゃえばいいのに。みんな - いまやってるのがしょうもないのばかりだから - ああいうのに飢えてるんだから。 でもビルの8階っていうのがなー。半地下にないとなー。
 

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