1.10.2021

[film] 小早川家の秋 (1961)

1月3日の昼間、Criterion Channelで見ました。小津を後ろから見るシリーズ。
英語題は”The End of Summer”、Criterionの解説には”The Kohayakawa family”とあるけど映画のなかでは「こはやがわ」って言っている。

最初に松竹ではなく東宝がくるので変なかんじ。舞台は京都と大阪で、ネオンの赤が美しい。

大阪の造り酒屋の一家があって、大旦那が小早川万兵衛(中村鴈治郎)で、そこの経営は長女文子(新珠三千代)の婿の久夫(小林桂樹)が切り盛りしていて、他には長男の未亡人で画廊で働いている秋子(原節子)がいて、次女の紀子(司葉子)がいる。

ある日、万兵衛の義弟の加東大介が取引先で工場主をやっているぎらぎらした磯村(森繁久彌)に秋子の再婚話をもちかけて、丑年の磯村は牛のように乗ってくるのと、もうひとり、会社員の紀子にもそろそろ、ってお見合い話が来たりするのだが、彼女は同じ会社の札幌に赴任することになった寺本(宝田明)の方が気になっているらしい。

このふたりがいっぺんに片付いてくれたらお家も安泰なんじゃが.. . と家族は言いあうのだがこの映画の主人公は彼女たちではなくて大旦那の方で、最近隠れるようにちょこちょこ出かけるようになったので、番頭の命をうけた店員の六(藤木悠)にあとをつけさせてみると尾行は失敗して、でも大旦那は昔の愛人(焼けぼっくい)の佐々木つね(浪花千栄子)とその娘の百合子(団令子)の家に通ってふたりで競輪したり、百合子のBF(アメリカン)が持ってきたサメの子(キャビア)を食べたりして気楽に楽しんでいることがわかる。

それがばれた時の文子と大旦那のやりとりと喧嘩の緊張感(一歩もひかない新珠三千代)がすごくおもしろいのだが、そうやって意地の張り合いをしていたら大旦那の具合が悪くなって、でも治らへん性格なので懲りずに立ち上がって、孫とのかくれんぼの途中で鬼を放棄してこっそりそのままお隠れになって消えちゃって、炎天下で競輪とかしたりしていたら…

女性たちにはどこまでも結婚によって落ち着いて(片付いて)頂きたいのだが、家の長の大旦那は好きにしたい放題やって、散々楽しんだ果てに「ああもうこれでもうしまいか? しまいか?」ってぽっくり死んでしまうという、ムシのいいはなし(家族談)。 結婚式で片付きましたねよかった、って終わるのではなく、火葬場への行列と墓場のカラスでしんみり終わる。 これがThe End of Summerで、(三途の?)河原から火葬場の煙を眺める農夫の笠智衆が呟く - 「後から後から生まれてくるわー ようでけてるわー」が締めてくれる。

うん、ようでけてるわ。 でもそれは誰にとっての、かしら?

とにかく中村鴈治郎が家の廊下を着替えたりしつつ抜けていったり、ぶつぶつ言ったり、通りをすたすたすいすい歩いていったり、彼のみごとな舞踊のような所作と芝居を見ているだけで楽しい。ほんとは佐々木の家で遺体で横たわってて家族が現れたとこで「騙されよってからに」ってひょっこり立ち上がるかと思ったんだけどな。つねが団扇で扇いでいるし。

画面のデザインがびっちりとすばらしくて、酒屋の桶の並びから、縁側の向こうのサルビアの赤、レンガの薄赤とか、昔の日本家屋の造りが - 大阪の家も京都の家も - いいな素敵だなー、っていうのと、最後の葬列のシーンは、二人の人物の立ったり座ったりの呼吸とか煙突に向かう葬列とか、背後でえんえん鳴っているセミの声と音楽も含めた様式がフェリーニの映画みたいに見えたりする。 あと、最後の河原から墓場の景色は格子ではなく斜めの線が入る。 これらをぜんぶがちで計算している。


NetflixでMartin Scorseseの、というよりFran Lebowitz の”Pretend It's a City” (2021)を見始める。ものすごくおもしろくて、もったいないのでまだ最初の2エピソードだけ。 自分がなんでNYという都市に惹かれてきたのか、いまもそうなのか、その理由をぜんぶFranが説明してくれる。あの調子で。 少しだけ元気がでた。

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