12.31.2020

[log] 年のおわりに

ずっとなんもしないままに気がつけば…  という口上をお約束にしているのが毎年のこの日で、それはほうらこんなにもなんもしない一年だったよね、という後ろめたさを抱えこんで、反省するふりして年の変わり目になんもしないで固まっているの - ちょっとでも動くとやられるぞ - が恒例のあれで、それはそれでおもしろいからいいのだが、今年はそうではない。

だれもがまさかこんなことになるとは、こんなはずでは、というぐじゃぐじゃにどう対応すべきか右を向いたり左を向いたり当惑したまま、あるいは大切なひとが病院にいたり会えないままに辛いお別れになってしまったり、この一年はシンプルに幕を降ろすことを許してくれない、簡単に終わってしまってはいけない一年なのではないか、って。 他方で、とにかく散々だった - だからいったんは降ろそう、蛍の光を流して暦の上だけでも2020年にさよならをしよう、っていうのもわかる。 こんなくそったれな年、振り返りたくもねえやとっとと行っちまえ、にするか、このまま過ぎていくなんて許すもんか、とするか。

自分はどちらかというと後者の方で、いまのこの、台風のまんなかにいるような状態 - 今日の英国は964人が亡くなっている - で、落ち着いて振り返ったり新年の抱負なんて言えるかよ、って思う。 のでふつうにぼーっとごろごろしてたまに窓の外みたり映画みたり積んである本をめくったりして、この年の終わりは、終われない年の終わりなんだ、って。こんなふうになってしまった年のことを忘れてはいけないんだ、って。

だからお片付けなんてもってのほかだわ。(←結局ここか)

4 - 6月のロックダウンを生き延びて、だんだんに緩んでいった7-9月の夏がこのままなんとかいけるという空気を作ってしまったのか、経済的に後がなくなって動かざるを得なくなってきているのか、たんにもう我慢できない子供、なのか、おそらくそういうのの複合で、だからといってなんで感染者数と死者数があんなふうに伸びていくのか - 科学でコントロールできない自然のトランスフォーメーションとか、言ってみたところでどうなるもんでもない想像を転がしてみたり。 

で、そんなふうに吐き出した毛玉をいくら転がしてみたところで、自分だってスーパーに買い物にいけば感染するかもしれないし、余計ななにかを運んだり撒き散らしたりしているのかもしれないし、だからじっとしていろ、って自分で自分に命令してうずくまる年の瀬。

というのが世界概況みたいなとこで、あとは自分の場合は日本から英国に「駐在」というかたちで働きに来ている、その働き方うんたら以前の、働くということの意味だの目的だのを考える機会の多い一年だった。 リモートでできることがこれだけある、なら駐在も出張もいらなくならないか - そういう仕事のなりたちから派生してきたあのよくわかんない日本人会だのなんだの、馴れ合い寄り合いもいらないじゃろ、とか。そういう集まりが大好きなおっさんたち(ほぼ腐れた政治家におなじ)だけでやっていればいいんだ。やってろ、って。

そういうのと、そういう状態になって見るとオフィスにおける「職場」がいかに特定のジェンダーや年齢層を特権化したり疎外したりする意味不明な場所であるか、が見えてきたり。(そんな余計なこと考えてないで仕事しろ、になるのも大概が「職場」)

今日の外気温はだいたい0℃から1℃で、きんきんに寒いので少しお散歩して戻ってきて、映画はOrson Wellesの”The Trial” (1962)を見て、NetFlixで”Death to 2020” (2020)っていうのを見て、成瀬の『流れる』(1956)を見た。 『流れる』は定期的に見ている大好きな映画で、師走の映画ではないのだがなんとなく(猫のぽんたを見る)。

あまりにつまんないので1月くらい前から見始めたTVは”The Queen's Gambit”みて、”The Crown”みて、“Dash & Lily”みて、”The Mandalorian”みて、”Bridgerton”があと一話でおわるとこ。こんなにTVドラマいっぱい見たのは久しぶり。そのうち書いてみたい。

そして、最後に聴いた一曲はもちろん、Elvis Costello先生の”Farewell, OK 2020”。 それに続けてマンチェスターでやってる”The Hacienda 24 Hour House Party NYE!”をえんえん。

というわけで、年が明けたら2020年のベストに着手しよう。
よい新年をお迎えください。

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