12.08.2020

[film] Mank (2020)

4日、金曜日の晩、CurzonのSOHO(映画館)の大きいスクリーンで見ました。客は10人くらい(みんなロックダウン明けで飲み屋の方に行っているらしい)。

Herman J. Mankiewicz (1897 - 1953)がOrson Wellesの”Citizen Kane” (1941)の脚本を書いていた時のことを監督David Fincherが亡父Jack Fincherの遺した脚本をベースに作ったフィクション。

登場する人物たちは30-40年代のハリウッドに実在した人々なのだが、Mank (Gary Oldman)が口述筆記させている紙束には”Citizen Kane”ではなく” American”とあるし、事実に基づいたものではない。というところでPauline Kaelの”Rising Kane” - ”Citizen Kane”を書いたのは誰なのか論争もあるし、このドラマのモデルとされているWilliam Randolph Hearstとの異同もあるだろうし、事実に近いような近くないようなフィクション(or フェイク)の幾重にも束ねられた織物として見る楽しさがある。でもそれは失われてしまったオールド・ハリウッドを慈しんで懐かしがるようなものではなくて、昔からあそこはこんなにも糞プレイスだったんだよ、あー気色わる、っていうやつで、父子Fincherは、なぜMankはあの時代にああいうドラマを叩きつけなければならなかったのか、をこまこまと積んで追っているように見える。

自動車事故にあって寝たきりでベッドに縛り付けられたMankがOrson Welles (Tom Burke)から依頼を受けて、スタジオの差し金(お酒差し入れ付き)として監視役のJohn Houseman (Sam Troughton)や筆記担当のRita (Lily Collins)と看護担当の女性が傍にくっついて書き始めるのだが、うなされながら彼の回想は新聞社主William Randolph Hearst (Charles Dance)とか彼の若い愛人Marion Davies (Amanda Seyfried)とかMGMのボスLouis B. Mayer (Arliss Howard)とか若きプロデューサーIrving Thalberg (Ferdinand Kingsley)とかの、(彼からすれば)どいつもこいつも怪物とか妖怪みたいにかんじ悪い連中のあいだを行ったり来たりする。その極みとして描かれるのがカリフォルニア州知事選で社会主義のUpton Sinclairが共和党候補に敗れた事件で、Mankはその裏で共和党側への世論誘導のために映像が操作されていることを知ってしまう – 更にその結果を受けて人が死ぬ。

映画は実際の映画制作に入る手前で - 脚本家にMankの名前を入れることを向こうが合意するところで終わって、実際に彼の”American”がどう現場で捏ねられて”Citizen Kane”になったのかは触れられない。あと、Mankのフラッシュバックの順番と出来事が完成された映画のどこにどうはめられているのか、もう誰かやっていそうだけど追ってみたらおもしろいのかもしれない。

20世紀に入って映画が産業として立ちあがると、それは前世紀からあった作家とかアーティストの孤独な営為とは異なる何かで、受け手の側も従来の読者や鑑賞者とは別の所謂「大衆」として括られる人々を相手にすることになる - 新聞と同じように - ということが見えてくる。それがそれなりの規模をもつ産業として成立した所以でもあるのだが、こうした「産業」が必然的に担うことになる自身の維持と保身が力を持った政治的な動勢と繋がっていくこともこれまた必然で… そういう事象と、その力を当然のように行使してしまう権力者=金持ち共を見てしまう、と…

ていう映画産業の成立とひとりの映画作家の確執を描くのにDavid Fincherは当時の意匠を細部に至るまでデジタル(RED Monstrochrome 8Kだって)で再現・再構築して複数の時間軸を行き来する旅(含.悪夢)として展開してみせる。ここのクリアに曇ったデジタルの画面上に広がる悪夢のように気持ちわるいあれこれって、本当にあの当時のものなのか、語られないもやもやした部分も含めると今の時代のそれとしか思えない – という錯視を狙ったとか。

こんなふうなおおよその建てつけを理解した上で、それでもこのお話をおもしろいと思うか/思えるか、ということ。昔の映画っておもしろいかも、ってコメディばかり見始めた頃に『市民ケーン』を見て、この気色悪いかんじってなんなのか、これがなんで映画史上のベストに選ばれ続けているのか、ちっともわからなかったことを思い出した。映画にはこういう暗さも必要なのだ、とわかるにはもう少し時間が必要だったのだが、この映画もそんなふうに作用してくれたりすればー。

実在の人物をモデルにしている、という点だとDavid Fincher には“The Social Network” (2010)があって、あれは得体の知れない状態からSocialな何かを築いて大金持ちになったMark Zuckerbergという人物の像をいくつかの事実をベースにくみあげていったもので、あそこで描かれたMark Zuckerbergのどす黒い部分って最近ますますあのゲス野郎そのままだったな(くそったれ)、と思わざるを得ないのだが、ここではMankの遺したスクリプトからMankの像と当時のSocialのありようを – なんで彼はそれを書こうと思ったのかも含めて – を再構成しているような。

そしてFincher父子がいまなぜそれを映画にしようと思ったのか? おそらくメガ(ギガ?)産業となってしまった映画がネットとTVの爆発的な拡大に伴う転換期 – 30~40年代と同程度のインパクトをもった - にあることを認識していたから。スタジオはストリーミングを中心としたデジタル・コンテンツ産業に組み入れられて、映画は手元の端末で好きな時間にいくらでも再生できるようになって、コロナがこの傾向を後押ししてしまった。 この作品だってNetflixの下で、監督自身がここと長期契約を結んでいるという事実。そして「コンテンツ」としての性格故にでてくるフェイクやバイアスの問題の気持ちわるさ。 Mankのようなおっさんひとりが酔っ払って呪詛の言葉を吐いてどうなるもんではなくなっている。

酔っ払いといえば、Gary Oldmanって”Darkest Hour” (2017)でもLily Jamesに筆記させていたのでなんかかんじわるいかも – これは勿論Gary Oldmanのせいではないのだが。文章くらい自分でタイプしなよ。 経団連のじじいかよ。

あと、昔の映画が好きなものとしては、少しだけ出てくるBen Hechtと一緒にMankが”The Front Page” (1931)や”It's a Wonderful World” (1939)を、Frances Marionと一緒に”Dinner at Eight” (1933)を、どんなふうに書いていったのか、とかを見たい知りたい。Gary Oldmanとは別のひとで。

Trent Reznor & Atticus Rossの音楽は当時のJazzをベースにしたビッグバンド編成のをふつうにしらっとやってて – それをチャレンジングだった、とかぬかしているのでかわいくない。たまに音の切り方とか隙間に彼らっぽいところを窺えないこともないけど。 エンドロールのふたつ目のシンプルなピアノ曲が“Still” (2002)みたいでよかった。  でも、できれば最後にめちゃくちゃダークでぐしゃぐしゃに壊れたインダストリアルで締めてほしかったかも。David Lynchとやった”Came Back Haunted”みたいなやつで。

“Mank2”は、あの後ハリウッドを干されたMankが探偵事務所を立ち上げて業界周辺の怪事件を解決していくお話。事務所のスタッフはRitaとかそのままで、きな臭い力仕事は戦地から戻ったRitaの旦那が担当して、John Housemanが依頼人を連れてくるの。Netflixでシリーズ化を希望。
 

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