6.23.2020

[film] Woman Make Film: A New Road Movie Thorough Cinema Part 3 (2019)

13日、土曜日の昼間にBFI Playerで見ました。

“Part 3”はChapter 18から25まで。紹介された映画は114本。ナレーションはAdjoa Andoh → Kerry Fox→ Shamila Tagore → Jane Fondaとリレーされた。このパートで扱われたテーマこそ、一番男女間の性差・ジェンダー観のようなものが現れやすい領域、という気もするのだが、あえて深掘りをせず、他のChapterと同じ温度での紹介に徹しているような印象。ここは評価が分かれるところかも知れないが、考えるネタを提供する - あとは各自勝手に掘れ – でよいのでは、と思った。 以下メモ。

Chapter 18  Bodies

彫刻でも絵画でもBodyは常にセンターにあった。映画でもサイレントの時代のチャップリンからガルボにモンローにウェインに -  女性監督はBodyをどう描いてきたのか。

“One Sings, the Other Doesn't” (1977)のベールに隠された顔、”Chocolate” (2009) by Yasmin Ahmadでの女性と店員のやりとりのシーン等から、隠された体 - 曝される体のありようが示すカルチャークラッシュ、ジェンダークラッシュ、更に裸であること(nakedness)はReligion, Gender, Classの前に来るのかどうか、という問い。

“Beau travail” (1999)  や”Olympia Part Two: Festival of Beauty” (1938)で描かれる男たちのむき肉、その反対側にあるかのような”Mustang” (2015)での少女たちの体の嘆き。
手や足への着目とそれがダンスとして織りなされる形としてLeni Riefenstahlのマスゲームと”The Last Stage” (1948)でのアウシュビッツの女性たちの対比。
ブルジョアや権力を体現するボディとして”American Psycho” (2000)のChristian BaleのぴかぴかのBody、更に怪我や出産で引き裂かれたり痛みを体現するBody。一番最後に”Evolution” (2015)でのありえないBody。

Chapter 19  Sex

女性監督は画面上でSexをどう描いてきたのか、そのやり方から我々は何を学ぶことができるのか。
最初は”Peppermint Soda” (1977)や”But I'm a Cheerleader” (1999)での、少女の脳内や規範としてあるSexから入って、”Dogfight” (1991)での「準備」のシーン、そこから Sexをどれくらい近くから撮るか、その一番近い例として”American Honey” (2016)の草の上のとか。”Le Bonheur” (1965)での20カットの固定ショット重ねとか、いくつかの撮るスタイルを例示する。

そこから”Complex but Good sex”として”The Future” (2011)の中年男との変なやりとりとか”La captive” (2000)のバスルームのシーンとか。

なんだかんだ楽しんでいる例として ”American Psycho”とか”The Diary of a Teenage Girl” (2015) – やりすぎ - とか。 逆に痛みや苦痛の側面については取りあげられていない。これが意味するところはー。

Chapter 20  Home

過去の名作 - “The Wizard of Oz” (1939)でも”The Apartment” (1960)でも”E.T. the Extra-Terrestrial” (1982)でも、Homeが大きな意味をもつ映画は多い。

夢の家、理想の家を現実 - アウトドアとかコテージとか - との対比で描いたり、Safe Placeとしての家 - 家の外は危険なのか安全なのか - とか、家を失うことの恐怖を通して家ってなんなのかを問う、とか、兵士が壊れた家に戻る、失われていく村の描写を通して家のありようを再定義したり、とか。 ここも、「家」に対するイメージって男女間で結構異なる気がするのだがその差に踏みこむことは敢えてしていないような。

Chapter 21  Religion

救いを求めて彷徨う巡礼とか、ひたすら祈る少女とか、そこに群れをなす人々(蜘蛛の糸)とか、そういう描写の反対側で、救われないことの絶望 – “Priest” (1994)とか、信仰は本当にひとを救いうるのか、という例として”Lourdes” (2009)や”Persepolis” (2007)とか。

このChapterで取りあげられたのは8本で、とっても少ない。 やはりちょっと難しいテーマなのかな。

Chapter 22  Work

“The Future” (2011)や”American Honey” (2016)でのSales – 売りこみというお仕事の大変さから入って、自然を相手にするソヴィエトの草刈とかベネズエラの塩田とか、それとは逆の食事の準備とかのDomestic workの延々続く繰り返し、その反対に対置される無邪気な子供の遊び。

あと忘れてはいけない”Jeanne Dielman, 23, quai du commerce, 1080 Bruxelles” (1975)のベッドメイキングするシーン – YouTubeみたい - とか、ワイルドの『わがままな大男』が原作の”The Selfish Giant” (2013)でのゴミ漁りをする少年たちとか。

仕事のdesperateな側面として雇い主側の傲慢を描いた”Monster” (2003)とか、仕事を貰えるならなんでもやっちゃう”Sherrybaby” (2006)とか。あとこの並びなのかどうなのか、”Devotion: A Film About Ogawa Productions” (2000)での大島渚や原一男のインタビューが。

Chapter 23 Politics

ここまで日々の生活における大切な側面 – Sex, Home, Religion, Workときて5つ目に忘れちゃいけないのがPoliticsです、と。(政治ってそれくらい大切なことなのよ)

わかりやすいというところもあるのか、社会主義の国における理想とかシンボルの表象から入って、プロパガンダについて(idealism → symbolism → propagandaという流れ)。一般市民とか子供の目線をうまく使うやり口とか。

法廷の判決シーンとかプロテストにストライキ、政治のありようが見える瞬間の描写、political aftermathの表現として田中絹代の『恋文』(1953)での兄弟の会話 - 復員後の仕事のこととか。
最後に紹介された”The Hidden Half” (2001)でのイラン革命時と現在の対置があー、だった。

Chapter 24  Gear Change

この次のChapterから個々のジャンルに入っていく前に、ギアチェンジをしましょう、ところで映画のギアチェンジって例えば―。

“Selma” (2014)の冒頭の爆破のところとか、”Girlhood” (2014)で洗い物をしていた少女がそっとナイフを忍ばせるとことか、”Orlando” (1992)が迷路を抜けていくところとか、最後の”The Connection” (1961) by Shirley Clarkeでのカメラの切り替わりの鮮やかさ、とか。

Chapter 25  Comedy

ここから各ジャンル別の紹介で、最初はコメディ。一番最初はまずアクションありき、ということで”Jumpin' Jack Flash” (1986)のWhoopiが電話ボックスごと引き摺られていくシーン。子供やお金持ちをネタにしたもの、”The Trouble with Angels” (1966) by Ida Lupinoの楽しいしゃぼん玉のシーンとか、Sex comedyにPolitical comedy、死体が歩きだしたり、とか。
この辺、ジャンルで括ったらもっともっと出てくるのではないか。    

で、Part 4に続く。


政府が7/4から映画館とか美術館とか美容院とかレストランとかパブとか開けてよい、って。
3ヶ月前の3/23、一日の死者74人の時点で家からぜったい出るなって言っておいて、いまの6/23、死者が171人いるのにパブ開けますーって頭おかしいんじゃないか、ってみんながいうのはもっともだわ。
こういうのに乗ってはしゃいだらあかん、てわかっているのだが、なんとなくSecond Shelfにアポ入れてしまった。 見るだけだから。

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