6.28.2020

[film] Fourteen (2019)

21日、日曜日の晩、BAMのVirtual Cinemaで見ました。音楽もついていない低予算映画だけど、すばらしかった。

最近よく見ている気がする14歳の女の子たちの話、ではなく、14歳の頃からくっついたり離れたりを繰り返していくふたりの女性のお話。 コメディではなくて、レスビアンの映画でもない。

Brooklynで教師の仕事をしながら作家になりたいと思ってがんばっているしっかり者のMara (Tallie Medel)とSocial Workerをしている豪快さんのJo (Norma Kuhling)がいる。 MaraはちっちゃくてJoはでっかくて、JoはよくSocial Workerのエージェントから契約切られたり、その度にエージェント探してたり、同様に彼も頻繁にころころ変えたり変えられたりして、Joからそういう電話をもらうとMaraはJoのところに行って話を聞いてあげたり、新しい彼と会ってあげたり、場合によっては一緒にいる彼からJoが手つけられない状態になっているから来て助けて、って電話があったり、そうするとMaraは必ずJoのところに駆けつけるし、でもふたりで会う約束してもJoが現れないことは頻繁で - ごめん寝てたわー っていう言い訳(このB型やろう) - 始めの方はふたりのそういうやりとりが続いていく。

Maraの方だって彼は変わるし、でもちゃんとした彼もできてやがて妊娠して子供が生まれてシングルマザーになって、そういうMaraの環境の変化は時間の経過を表していて、気がつくと1年-2年-5年-10年-みたいにどんどん時間が過ぎていって、そういう節々でJoと会う回数は減っていって、たまに会うと今度こそはだいじょうぶそう、な気がする彼と一緒なのでようやく落ち着いたかな、って思うのだが、それもやっぱり続かなくて、更にしばらくぶりに会うと公園でジャンキーみたいにやつれて、傍にいる男もカタギではなさそうなかんじで、でも今のMaraにはなにかしてあげられそうにない。

これって側から見ているとなんでそこまでしてあげるんだろ? ってよく思うようなやつで、でもそれって当人たちにとっては謎でもなんでもない、理屈とかで割りきれない、はじめからそういうものとして成り立っている関係、というだけのこと。他がどうこう言うようなのではないそういうの、あるよね。

でも最後の方で、Maraが少し大きくなった娘に14歳だった自分たちに起こったことを語るやりとりはじーんとする。 最後までMaraはJoを受けとめようとしたし、JoはMaraに会いたいと思っていたし、14歳の頃の自分と自分たちで変わったこと変わらなかったこと、変わっていないと思っていること、などなどが浮き彫りにする時間の経過と自分の変化と。 ずっと友達でいられると思っていたし時間ごときになにができるか、って思っていたし。 そういう現在とあの頃を行ったり来たりしつついろんな痛みと辛さと甘みが渦を巻いてこちらにやってきて、それは複雑だけど普遍的ななにかを語ろうとする。

ふたりが過ごした14歳という断面が特別なんじゃなくて、その断面を覆いにくるカサブタとか苔とか接木とか湧いてくる虫とかそういうのの重なりあいが後々に形作る植生とか森とかのありようが独特なのだと。  日本でも公開されてほしい。


ついにようやく、午後にThe Second Shelf(古書屋)に行った。小さい店なので予約制で一回にひとり(ひと組み)しか入れないから棚を独り占めできるよ。ここは開店した頃からずっと通い続けていた店なので自分の書棚の延長のようなかんじ(まさにSecond Shelf)がしていて、だから並んでいる本たちにやあ久しぶりとか、まだいたのねとか、自分でもちょっと危ないかも、って思った。 
ところで、3月からここまでずっと、本もレコードもオンラインでは一切買っていなかった。散歩のついでにスタンドでNew Yorker誌を買うくらいだった。 つまり、数字だけだとひと月に費やしてきた本代レコード代ライブ代(いくらだか知らんが)の3ヶ月分をぶっこんだって構わないはずで、でもいきなりそこまで飛んでいくのは大人じゃない気がしたので、少しだけ。とにかくうれしかった。

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