4.27.2020

[film] La Prisonnière (1968)

19日、日曜日の昼間にMUBIで見ました。日曜の昼に見るやつじゃなかったかも。
Henri-Georges Clouzotの唯一のカラー作品で遺作。英語題は“Woman in Chains”、邦題は『囚われの女』。

冒頭、Stanislas (Laurent Terzieff)がひとり、ゴムでできた小さな女性のフィギュアをぐにゃぐにゃ弄んでいるところが映される。裕福な彼はギャラリーのオーナーで、そこで開催されるオプティカル・アート系の展示に参加する前衛アーティストのGilbert (Bernard Fresson) とその妻でTV局で編集の仕事をしているJosé (Élisabeth Wiener)がばたばたとオープニングパーティーにやってくる。 野心たっぷりのGilbertは影響力の大きい女性の批評家にべったりなので、ふくれて帰ろうとするJoséにStanislasが声をかけて、自宅にきて作品を見ないか、って誘う。ついていって彼の豪邸でスライドで作品を見ていくのだが、中に一枚やばい緊縛写真が紛れていて、気まずくなって別れてからもJoséの頭からそのイメージが離れてくれなくなる。

相手に虐められたりいたぶられたりしている(更にそれがなんか中毒になっている)女性たちのインタビュー映像を仕事場で繰り返し見ているJoséは、我慢できなくなってStanislasにああいうのを撮影する現場にいさせてほしい、ってびくびくしながら言うとStanislasは爬虫類の顔でいいよ(しめしめ)、って、でも実際にモデルが来て撮影が始まるとJoséはいたたまれなくなって出て行っちゃって、でもその後でごめんなさいやっぱり..  (以下すり鉢)。

ふとしたことで一瞬見てしまったなにかが妄想と練りあわさってこびりついて「あたしとしたことが..」の葛藤を抱えたままずるずる、ていう地獄と紙一重の快楽が前衛オプティカルアートのぐるぐるの錯視効果と絡まって大変だねえ、って。 これって自由とは何か、っていうテーマと微妙な位置関係にある(気がする)生理的な快楽とか、そういうところも含めて「束縛」が愛とか生のありようにどう影響するのか、っていうお話し、って書くと高尚な何かに見えたりする?

時代的なところだとMichelangelo Antonioniの“Blowup” (1966)も同様のテーマだったような。視覚の隅のちょっとした亀裂が呼びこんだ縛り拘りが生の根幹を揺らしてしまうのはなんでなのか? このテーマが80年代以降なんとなく消えてしまったような気がするのはなんでなのか? マルチメディア(死語)から最近のVR/ARまで、胡散臭いのは山ほどあるのに。あまりに胡散臭すぎてどうでもよくなった、のか、巷に溢れまくるいろんなヴィジュアルが欲望の消費に直結するようになっちゃったからか。

この後の展開を言うとJoséとStanislasは急速に親密になって、ふたりで海沿いのホテルにいって牡蠣3ダースとロブスターとドンペリを注文して盛りあがろうとするのだが、なにかに目覚めたのか怖くなったのかそこから逃げ出したJoséがGilbertにすべてを話して、GilbertがStanislasのとこに殴り込みにいって、なかなかの修羅場展開になるの。 Stanislas、部屋でひとりでフィギュアと遊んでいればよかったのにねえ、とかJosé はStanislasと一緒になった方が幸せになれたのでは、とか。こういう場合、囚われてしまうのはやはり「女」の方なのか、とか。 Jeanne Dielmanだったらどうしただろうか?

これをアメリカ的に明るく軽薄にしたのが”Fifty Shades of Grey” (2015)、っていうのはだめ?


月曜日になって、Boris Johnsonが復帰した。とっても元気そうだ。あそこまで元気なっちゃうとやっぱこいつうざいな、って。

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