11.12.2011

[film] Central Park (1989)

出張前日の夕方に見ました。 Wisemanの未公開作のなかでも、これだけは見ておきたかった1本。

80年代後半のCentral Parkの夏のあれこれ。 冬も素敵なんだが、雪景色は出てこなかった。
公園で遊んだり寛いだりする人たちと、公園を運営管理する側のいろんな人たち。

市が管理しているパートもあれば、地元住民が自主的に管理しているパートもある。
ここの「地元住民」ていうのは、Central Park Viewを毎日楽しむことができる場所、5th Aveとかの超高級アパートに暮らす上流の方々で、彼らは大金持ちの誇りと自分たちが公園を美しく維持して下々の庶民にも楽しんでもらうのよ、だってこの公園は自分たちの庭みたいなものだもの、ていう立派な志でもって、通りに面した全ての建物から供託金を集め、維持管理費にあてたりしているの。

で、下々の民に公園を提供して「あげている」、みたいな高慢ちき感覚が、例えば最後のほうに出てくるテニスコートの話でのプチ衝突のような形で顕在化したりする。 いったい誰のための公園なんだよ? みたいな。

こうして、これだけでっかい都市のど真ん中に、あれだけの空間が確保されていて、それが(たまに事件も起こるけど)それなりに維持管理されたかたちで人々にずうっと提供されている、ということの特異性みたいのが浮かびあがってくる。
それはハイドパークとも代々木公園ともちょっと、なんか違っていて、それはあの島の真ん中に長方形で切り取られている、というのが大きいのだと思う。 なんとなく。

病院や軍隊とは異なり、もっとぼわーんとしたかんじで、いろんなひとがここには集まってくる。
なんもしないでぼーっとするひと、散歩するひと、読書するひと、掃除するひと、食事するひと、スポーツするひと、デートするひと、結婚式するひと、稽古みたいのをするひと、ツアーするひと、なんかのイベントやってるひと、なんかのデモやってるひと、音楽やるひと/それをみるひと、木を植えるひと/刈るひと、などなどいくらでも。

公園でなくてもできそうなこともあるし、おうちではできないこともあるし、公園じゃなきゃやだ、というのもあるだろう。
そういうのをぜんぶ受けとめられるだけの広さと明るさがあって、実際にあの公園はそうだから実にいろんなイベントが行われる。
だからこの公園はみんなに好かれるのだ、ということもできるし、みんなに好かれたからこの公園はこんなふうになったのだ、ということもできる。 どっちも正しくて、異議なし、みたいな、理想的なPublic Spaceのありよう。 

公園にいるひとたちの髪型もファッションもみんな80年代末期、ていうかんじで懐かしい。
まだローラーブレードとかもない時代。

オペラのライブではパバロッティが歌っている。 
ロックのライブではMidnight Oilが歌っている。 Peter Garrettのはげ頭。 なつかしや。

最後のほうではなんかの撮影をしている現場がでてくる。
だれかと思ったら Francis Ford CoppolaとVittorio Storaroなのでびっくりする。
"New York Stories" (1989) の撮影風景なのだった。
でもあんなの普通、横で撮らせてもらえないよねー

わたしにとってのCentral Parkは、夏にライブをやる場所、と、動物園のあるところ、でしかないなあ。
ライブで入れなかったときに寝っころがって聴く、というのは何度かやったことがあるが、気持ちよすぎて怖くなっていつも途中で起きあがってしまう。  
ふつうのNew Yorkerのようにちゃんと使いきれていないところがなんかくやしい。

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