3.08.2023

[film] Jardins en automne (2006)

2月27日の月曜日、ヒューマントラストシネマ有楽町のイオセリアーニ特集で見ました。(ああ、見れるやつがどんどん限られていくよう…) 邦題は『ここに幸あり』、英語題は”Gardens in Autumn”。撮影はWilliam Lubtchansky。

冒頭、棺桶屋の店先で男たちが俺はこれがいいとか、それは俺の方が先に決めてたんだとか、ほんとにどうでもいいことでわーわー揉めたりしている。

農業分野の大臣をしているらしいVincent (Séverin Blanchet)は、淡々と仕事をこなしているふうだったが、窓の外ではデモ隊が騒いでいて、でもそんなに顔色を変えないでいると、更迭が決まったようで後任の一団が現れてオフィスを追い出される。妻はでっかい石膏像をそのまま買って家に持ちこむような浪費家だったが、彼女の持ち物を含めてぜんぶ外に出されて、牛の絵数点を除いてもうぜんぶいらない、って、この際なので妻とも別れてひとり町にでる。

まずはママ(Michel Piccoli)- どういうママなのかは知らんが、”Mrs. Doubtfire”の数倍ぶっとくて揺るがなくて笑えない – に会いにいって、そこからかつて住んでいたらしいアパートに行くと、そこでは移民たちのコミュニティができてて大人も子供もひしめいて暮らしていて、それでも階下のかつての自分の部屋に落ち着いて、かつての飲み仲間だったらしいOtar IosselianiやJean Douchetと再び朝昼晩と飲み歩いたり踊ったり、公園の隅とか、橋の下にまで行くようになる。もう誰も彼のことを気にとめない。

一方、Vinventの後任として着任した大臣 – こちらも権力者顔 - も、最初はおまえみたいな奴とは違うんだ、って顔をしていたのに、Vincentと同じ愛人を囲って、同様にデモ隊の餌食になって…

権力とか名声の地位の脆さ儚さとかを皮肉をこめて描く、というよりは、そういうのから解き放たれて放り出された人生の秋にひとはどうやって生きて歩いていくのか、を極めて適当(ほめてる)かつ自由なタッチで – というより、野生のなんかのようにそもそも制御がきくわけではないやつらとどう渡りあったりやり過ごしたりして生きていくことができるのか、を起こったことを起こった順にだらだらスケッチしていくような。

Vincentには機構のトップに昇りつめた男の脂ぎった強さとかどす黒さとかは窺えなくて、昇りつめたら抜けちゃったのかどうでもよくなったのか、すべてが押されるまま流されるままになっていて、そんなキャラクター設定ってありうるのか? はあるものの、それがイオセリアーニの声(どうでもよいし)のようにも聞こえてくる。 『唯一、ゲオルギア』(1994)で祖国の権力を握ったものたちの抗争や盛衰を市民との対立のなかで生々しく描いてから10年強が過ぎて、なんかどうでもよくなっちゃったのだろうか、って。

この辺、同じく解き放たれている野生系の群像でも『月の寵児たち』(1984)のように無軌道な若さとか跳ねていくかんじはない。棺桶(冬)の手前の秋、の風に吹かれて右に左に漂っている印象があって、それでも絵としては悪くないような。

なんか、飲んでへろへろになって歩いて、誰かにぶつかってまた飲んで次に行って~なんとなく幸せ、ってそんな転がりようってホン・サンスみたいかも、とも思った。なにかを手放したあと、酔っ払うために酔ってひとに寄っていってキスする、みたいなところ。 ホン・サンスはもっとストレートにシンプルにスケベだけど。 Nicholas Zourabichviliの練習曲みたいにとことこした音楽も。

でもなー、Vincentも後任も抗議を受けてあっさり辞めて身を引くからえらいよなー。どれだけ証拠をつきつけられても絶対下りようとしないで居座って、支持者からは「悪い人ではないから」とかにぎにぎされて、それが男系の世襲でオートマチックに継がれていって、メディアも地権もそれを全面でバックアップして、それがえんえん、という地獄のようなどっかの国のことを想うと、それだけで清々しく見ることができてしまう。

あと、動物がいっぱい出てくるのがうれしい。Vincentたちも括りとしては動物とか家畜に近いところにいる、そんな佇まいの群れのように描かれていて。

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