1.03.2022

[film] Azor (2021)

12月19日、日曜日の晩にMUBIで見ました。
アルゼンチン=フランス=スイス合作映画で、監督はこれが長編デビュー作となるスイスのAndreas Fontana、脚本はFontanaと”La Flor” (2018)のMariano Llinásの共同。

タイトルは、スイスの銀行家の符牒で、「黙れ」- 何も見なかったことにする - という意味とのこと。

1980年のアルゼンチン、軍事政権下での行方不明や失踪が起こり始めていた頃、スイスからプライベートバンカーのYvan (Fabrizio Rongione)と妻のInés (Stéphanie Cléau)が出張でやってくる。表の名目は重要顧客訪問らしいが、裏では突然姿を消してしまった同僚のRéné - 冒頭にジャングルを背にやや疲れた笑みを浮かべている彼がそう - を捜す、というのもあるらしい。

空港から街中に入っていく時も警察の検問で連れていかれた若者がすーっと消えてしまったり不穏なかんじなのだが、スーツとドレスできちんとしたナリのふたりへの対応はどこに行っても社交の儀礼の範囲内にあって、富裕層の人々の間を和やかに渡っていく。

招かれたお屋敷やプールやパーティでのビジネス・トークを通して、顧客たちは儀礼のようにこれまでとなんの変わりもない、ということを強調するものの、運転手が別の用件で捕まらなかったり、どこかの娘と連絡が取れなくなっていたり、軍事政権の見えざる手が絶対に不可侵だった彼らの資産を脅やかし始めていること、それがいつどんなふうにやってくるのか誰にもわからないこと、故に新たな融資や投資に慎重になっていることをYvanは感じて、だからといってここで関係を絶って引き揚げるわけにもいかない。

失踪して片付けられたRénéのフラットの片隅からは暗号のようなクライアントのリストと”Lazaro”と書かれたメモが見つかり、彼の失踪の手がかりとなりそうなこれらに当たっていくこともYvanの使命となるのだが、こういう時勢なので口を開いてくれる顧客なんてそうもおらず、寧ろ門戸を閉ざす方に行ってしまっているかのよう。

アルゼンチンで、ヨーロッパから渡ってきて数代かけて現在の富と地位を築きあげた彼ら富裕層からすればこの程度の強奪、恫喝、排斥、横取り横流し、などなどは自分達が過去ずっとやってきたことだったはず、なのだが今回の場合は追われたり脅されたりする側になり、なにをどうしても事態を掌握してコントロールできない、絶対安全なんてありえない、そんなお国の事情が彼らを少しだけ苛立たせている。

そして、プライベートバンキング、という職名でぱりっとしたスーツを着こなし、数カ国語を話し、スムーズに会話や取引の話しを進めていくYvanにしても、裏ではなにをやっているのか、やっていないことなんてあるのかわかったもんじゃない、彼が取引しているのは単なる「顧客」なのかその背後に蠢くなにか/だれかなのか。ドラマの進行と共にそういう怪しさを醸すようになっていって、最後には小舟でジャングルを遡るようなところにまで導かれていく。 ここはシンセの音も含めて『地獄の黙示録』(1979)のパロディーのように見えないこともないのだが、1980年という設定も含めて結構まじでやっているかんじ。

この小綺麗で、何重もの不穏さ不自然さで塗り固められたドラマがなぜいま撮られたのか。フェイクな陰謀論の乱立とその裏で実質的な闇の支配が明らかにあることを知りながら日々の仕事だのなんだので消耗しきって(突然現れなくなったり)なにも言えなくなっている - Azor - 今の我々のありようをとっても巧く表している気がした。”La Flor”で「終わりも始まりも持たないやつ」として綴られたエピソードのようにどこまでも連なりつつ描かれていく寓話、というか。どこまで続いていくのこれ? って少し離れて眺めているような。 こういうのがアルゼンチン辺りから出てきているのっておもしろいー。


3日は、早稲田松竹で田中絹代を3本見た。 やっぱりとっても素敵だった。『流転の王妃』(1960)も見たいよう。

 

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