1.30.2022

[film] 私、違っているかしら (1966)

1月21日、金曜日の夕方、神保町シアターの淡島千景特集で見ました。
この特集も見たいのがいっぱいで『夫婦善哉』(1955)と『黄色いからす』(1957)は見て、所謂大女優とは別の存在感というか透明さを湛えた人だなあと思って。
監督は松尾昭典、 原作は森村桂のデビュー作『違っているかしら』(1965) - 未読、脚色には倉本聰とか。

原作は森村桂自身の経験を元にしたエッセイなので、ほぼ実話のようで、まだ就職にも職場にも男女差別なんてあってあったりまえ、ダイバーシティもプライバシーもカケラもなく「みんな違ってみんないい」なんて誰も言ってくれなかった時代のー。

白石桂(吉永小百合)は学習院に通う大学生で、冒頭でずっと務めていた親のない子供たちの施設のヘルパーをやめて自分の就職に専念しようとしていて、でも大学の相談窓口に行っても片親(父がいない)だと難しいとか言われ、父の親友で業界に強力なコネを持つ(自称)という田村(三島雅夫)に頼んだのにダメになって踏んだり蹴ったりで、でも母親(淡島千景)はそんなのちっとも構わずに趣味の登山に出かけちゃって、そんな彼女の膨れっ面の修行時代を描く。

母親からは放置されていても、大学の同期で学生運動のリーダーだったのでやはり就職に難儀している川瀬(浜田光夫)とか、施設にいた子で屈託なく日々の金儲けに勤しむゴロ(市川好朗)とかを支えにしながらようやくゴシップ女性週刊誌(でもゴダール座談会とかも載せる)に入って、いきなり冬山遭難現場の取材に行かされて、その後ばりばりの編集長小池(高橋悦史) - こういうのいそう - に遭難した遺族への直撃取材を強制されて嫌になってやめて、当時先端を走っていた明らかに「暮しの手帖社」に見習いのような形で入って、どう見ても花森安治の花井(宇野重吉)や大橋鎭子の河西(細川ちか子)と出会って、彼らに認めてもらったもののやっぱり自分は違うかも、ってどこに向かうかわかんない道をすたすた歩み始めるまで。

表向きは大人社会と向き合った大学生が直面する困難と超克と自己実現、のようなテーマだと思うのだが、当時の就職事情の酷さにあーあ、になって彼女の悔しさがあんまストレートに入ってこない。高度成長で上向いていたとかいっても裏の実情はこんなもんで、実はぜんぜんすごくなかったにっぽんとか、後半は”The Devil Wears Prada” (2006)みたいになるのだが、あれも主人公がそれでよいのならよいけど.. って見るたびに思ってしまうやつだし。

で、こういう物語の常としてわたしはわたしの道を見つけたから、のように終わって、そうですか、なのだがこの映画の桂 - 吉永小百合の膨れっ面からのさらっとした吹っ切れ方が素敵で、これまで吉永小百合の映画なんて見たことがなかった - 男どものもちあげ方がきもちわるくて - のだが、すばらしいと思った。くどくど語らず、激情に走ることもなく、立ち去って振り返らないとこ。それを誰の助けも借りないし、母親も貸さないし、男性なんて関係ないし、でやっていくとこ。ふつうにかっこいいったら。

当時のバラ色のサラリーマン万歳、みたいな職場コメディ - これもあんま笑えないので元気がないと見ない - もよいけど、こういうのも見ておいた方がよいねえ、って。これと同じように80年代や90年代の就職や職場の実情をちゃんと描いた映画ってあるのだろうか?  あと、関係ないけど「就活」とか「婚活」とかなでも「活」をつけるリクルートだかなんかのラベル貼りがものすごく嫌で、だってそんな「活動」するために動くなんて、ただの手段を目的にするのって家畜化の常套じゃん、ていつも思う。 だまされるな、って思うし、そもそもだますな、だわ。

1月があー。

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