1.20.2022

[film] 春原さんのうた (2021)

1月9日、日曜日の夕方、ポレポレ東中野(とっても久しぶり)で見ました。満席だった。

英語題は“Haruhara San's Recorder”で、これは映画の元になった東直子による歌集『春原さんのリコーダー』からのもの。これが『春原さんのうた』になった経緯はパンフに書いてあったりもするのだが、「リコーダー」と「うた」の微妙な違いはある。 杉田監督の前作『ひかりの歌』(2017)も短歌がモチーフになっていたが、「うた」の置かれ方は随分異なっている気がする。

冒頭、桜の花の下でふたりの女性が微笑みながら向かい合って座っていて、とても穏やかに幸せそうに微笑んでいる。そのうちのひとりが新しいアパートに越してきて、宮崎に行くという元の住人と話をして、そのアパートで暮らし始める。彼女の他にもう一人の女性のショットも何度か挿入されたりするので、ふたりで暮らしているのかしら? とも思うのだが、どうもひとりらしい。

それが主人公の沙知(荒木知佳)で、カメラは仕事場であるらしいカフェとアパートの間を行き来しながら、彼女の少し昔のことを知っているらしい男女が来て、「よかったねえ」って涙ぐんだり、彼女が食べているところを写真に撮ったり、バイクで遠出して水辺に佇んだり、どら焼きを食べたり、撮った映像を夜の建物の壁面に映したり。

沙知はもの静かで彼女自身のことを語らなくて、ほぼ語らない状態のままに季節は夏になって蝉が鳴いて、その蝉もツクツクボウシとか秋の方のに変わっていって、季節と時間が移ろって。時間が経っても彼女の生活に変化は見られなくて、その時間(2時間)の経過の仕方は映画館の暗闇で過ぎるあっという間のそれ、とは違って、窓から入ってくる気持ちよさそうな風を受ける、それを受けてソファで居眠りしてしまう(その様がよくてねえ)、それら逐次の時間感覚でもって過ぎていく。それは彼女にとって早いのかゆっくりなのか、どんなもんなのかしら? というのを考えさせるような作りになっている。どうやってそんなことを可能としているのかわからないのだが、そんなかんじで画面に現れる沙知と、何度か挿入される喋らないで横を向いている女性の像 – それが春原さん(新部聖子)なのだ、と最後の方の転居先不明の葉書のところでようやくわかって、そこから人は愛するひとがそこにいることをどう認識して、もういなくなってしまったことをどう受けとめるのか、などが背後から幽霊のように(まったく怖くないやりかたで)迫ってくる。そこに鳴り響くぴょろ~、みたいなちょっと間の抜けた(春原さんの)リコーダーの音。はぁー、っていうため息ではない、息がリコーダーを抜けてなにかが濾過されるようなー。 コロナ禍で撮られたのでみんな割とマスクをしている/しなければならなかった - こともどこかで関係している。はず。

「会いたい、恋しい」という台詞はいくらでも言えるけど、それがどれだけ虚しい穴を掘る、終わらない動作であるかがわかっているので、「いないんだよね」-「いないんだよ」ということを繰り返し、精一杯語ろうとしていて、その状態 - 半固形のゼリーのようになって保たれている生の、やってらんないかんじとか。 でも「みんながそうだから」なんて決して言わないで、同じ風にあたっていたりどら焼きを食べたりするだけの。

すごく風通しのよい映像なので、人によっていろんなことを受けたり感じたりすると思うのだが、窓から吹いてくる風にずっとあたっている、そのありようをいくらでも眺めていられたり、回っている洗濯機をぼーっと眺めていられるひとにはたまんないやつだと思う。

上映後の挨拶とトークで、演技は即興ではなくちゃんと脚本があったのです、と言われていたのでパンフを買って読んで、ああほんとだ、って。

パンフの写真で濱口監督が楽しそうに食べているハンバーガーはどこのかしら? Lincoln SquareのPJ Clarke'sのかなあ? だったらいいなー。食べたいなー。

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