1.14.2022

[film] 乳房よ永遠なれ (1955)

1月3日、月曜日(まだ休み)、早稲田松竹で田中絹代を3本見ました。

昨年の11月に鎌倉で『恋文』(1953)と『月は上りぬ』(1955)は見たのだがあの時の上映素材は4Kデジタル復元版ではなかったので改めて見直すし、何度でも見たいし。

デジタル復元版はあったりまえによいの。50年代の音源がデジタル化で洗浄されて綺麗に聞こえる、というだけでなくて、『恋文』だと主人公たちが走り抜ける渋谷の雑踏や室内の様子が細部まで再現されることで彼らの焦燥が際立って迫ってくるし、『月は上りぬ』だと月の光が何を照らしだしてそこから何が隠れようとしたのか、そこまで明らかにしてくれるの。それにしても、こんなにすばらしい作品たち - 今回は5本 – がお正月の7日間しかリバイバルされないなんて、あーあ、しかないわ。

田中絹代の3作目の監督作品。一作目の木下&成瀬、二作目の小津の「監修」から離れ、歌人中城ふみ子の歌集『乳房喪失』、『花の原型』と若月彰による彼女の評伝『乳房よ永遠なれ』を田中澄江が脚色したもの。すばらしい女性映画で、Tilda Swintonさん達がガイドする14時間のドキュメンタリー “Women Make Film: A New Road Movie Through Cinema” (2018)でも3回紹介されていて(ちなみに田中絹代作品で一番紹介されていたのは『恋文』の5回)海外での認知度も高い。

子供ふたりを抱えたふみ子(月丘夢路)は仕事で失敗してからやばいクスリを飲んで愛人を家に連れこんだりしている夫(織本順吉)が嫌になって実家に戻る。地元の幼馴染きぬ子(杉葉子)の夫 – 森卓(森雅之)が参加している短歌の会に参加して歌を詠んだら褒められてよい気分になるのだが離婚して長男と別れなければならなかったり卓が突然亡くなってしまったり、更に子供を連れ戻そうと戻ったところで自分が乳癌であることがわかってお先真っ暗の状態で転げ落ちていく。

他方で生前の森が短歌雑誌に勝手に送っていたふみ子の短歌は都会で話題になっていて、そこの若い編集者大月(葉山良二)が彼女のところにやってきたりするものの既に彼女は病床にあって…

今だと実話ベースの難病もの、ということになるのだろうが、どれだけ踏みつけられても落っことされても生きることへの未練? まだ生きてるんだし知らんし、って森の家に行ってお風呂につかったり大月と寝ようとしたりへっちゃらで傲岸不遜に生きようとして、亡くなった時だって廊下を向こうに運ばれていくシーンの方が残ったり、悲壮感はそんなにないの。そうして彼女の歌だけが残った、と。

おそらく男性が監督したら彼女は一生懸命生きたとか輝いていたとか勝手に自分とか家族にそうあってほしい(ほしかった)自分らの像と妄想をたっぷり振りかけてめそめそべたべたしてくるに違いないけど、こっちでは、永遠なのは切り離された乳房くらいだ讃えてろクソやろう(とまでは言わないか)、って石を投げてくるの。

『月は上りぬ』にもあった道の向こう、廊下の向こうに行ってしまうなにかを見つめる距離の感覚がより明確に出ていて場面によってはホラーとか冥界を思わせる空間描写がすごい。そこに怖ろしいなにかを見て感じてしまうなにかがあるのであれば、自分のなかにあるその感覚を見つめてみることだ、と言っていないか。

ここで描かれた月丘夢路のソリッドな顔立ちと容姿 - かっこよさってパンクのそれだし、エピソードも含めて70年代末のロンドンやNYを舞台にそのままリメイクできてしまうのではないか。ラストの支笏湖がテムズ川とかイーストリバーになったりすれば。

それなりの机に向かえる時間があったら『ケアの倫理とエンパワメント』で展開された論点を通してこの作品を掘りさげてみたい。もうとうに誰かがやっているのかもしれないが。

もういっこ、短歌といなくなってしまう人、という観点では先週見た『春原さんの歌』のことも考えてしまった。オルゴールの音とリコーダーの音とか、短歌って生と死の間を繋いだりもするものなのか。

田中絹代監督作品だと、残る1本は『流転の王妃』(1960)のみとなった。どこかでやってほしいよう。

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