3.17.2020

[film] The Seasons in Quincy: Four Portraits of John Berger (2016)

11日、水曜日の晩、BFIのTilda Swinton特集で見ました。
これも2017年に(確かDVD化された際に)Curzon SOHOで見ているのだが、今回また見たくなった。本当に美しい映画だから。
そしてなんの告知もされていなかったのに、やっぱりTildaは現れる。どこまでかっこいいんだ。

そもそもはColin MacCabeとTildaが80年代の終わりから90年代初にかけて行ったDerek Jarmanにいろんなことを聞いて纏める作業が充実していたので、これをJohn Bergerにもやったらおもしろいのでは、って92年頃から数年間に渡り彼の住むフランスのQuincyに通って集中的な対話と撮影をしていったのを、Colin MacCabeがいたUniversity of Pittsburghと彼が立ち上げたThe Derek Jarman Labが纏めて編集したもの。

全体は四季を通して4つのエピソードから成っていて、今回上映されたのは最初の冬 - ”Way of Listening”と最後の晩秋 - ”Harvest”のふたつ。前者はColin MacCabeが監督して、後者はTilda Swintonが監督している。”Way of Listening”はJohnの元を訪れたTildaがリンゴの皮を剥いたりしながらいろんな話をしたり、JohnがTildaの肖像をスケッチしたり、それくらい。

ふたりは誕生日が同じ(11月5日) – たまたま同じ駅で降りた旅人のようなもの – で、どちらも軍人を父に、そしてどちらも戦場で起こったことを決して口にしないような人で、そんなふたりが絵を描くこととか記憶とかリンゴの皮の剥き方とか、とりとめない、ようでなにげに世界の本質を貫いている気がするやりとりを繰り広げていく。インタビューのようにどちらが主であるとか、終着点とか引き出すなにかがあるわけではない、どこまでも分岐して反射してアイデアがアイデアを生んで転がって止まらなくなっていく対話。 暖かいランプの光に浮かびあがるJohnの彫りの深い顔、切り返してそれを見つめるTildaのまっすぐ(としか言いようがない)真摯な顔。

タイトルは勿論Bergerの著書”Way of Seeing” – 邦訳『イメージ――視覚とメディア』 - にひっかけたものだが、”.. Seeing”よりも少し漠とした手探りの、互いの語ることに耳を傾けることで広がったり繋がったりしていく世界、絵を描く・描かれる関係にも似た - そうやって暗がりから生成されていく世界の驚異がそのまま映像になっているかんじ。 上映後のQ&Aで客席から、この映画のペースがすばらしくよかったんですけど、というコメントがあったように、ここで流れている時間の緩やかさ、豊かさってなんなのだろう、と。

続いてのHarvestは晩秋で、”Way of Seeing”からここまでの間にJohnは長く連れ添った妻を亡くしていて、登場人物はTildaの息子と娘 – “Will We Wake” (1998)の時は赤子だったふたりが小学生?中学生?くらいになったのと、Johnの息子さん(もう大人)とのやり取りや一緒に創作する姿が中心で、移ろっていくのは季節だけではなくて次の世代もなんだなー、って。

エンディングでJohnがTildaの娘のHonorにバイクの乗り方を教えてあげよう、って彼女を荷台に乗っけてさーっと走り去ってしまうところが映画みたいでかっこいいの。映画なんだけど。

Colin MacCabeって自分にとっては『ジョイスと言語革命』の人(あと、日本の部屋のどこかで積んだままになっている『ゴダール伝』)なのだが、Tildaは彼のことを”one of my professor”と言っていた。

Derek Jarmanから映画のつくり方を学び、John Bergerから世界を呼吸するその作法を学んだTilda、最強としか言いようがないし、上映後、Derek Jarman Labからのふたりと一緒にQ&Aの席に座った彼女は、上に書いたような経緯やエピソードを思い出しつつ喋っていったのだが、その語り口ときたら学者さんというか考える人表現する人のそれで、かっこいいったらなかったの。

あと、Johnは晩年、フランスで農夫として暮らしていた、最後まで作る人であることを止めなかったのだ、と。 そうだよねー、そうありたいよねえ、って。


ところで今日はほんとうに悲しい一日だった。

午前中にBFIからしばらくのあいだ閉めます、とメールが入る。これで今月のやるきをぜんぶ失ってゴミ箱にあたま突っこもうとしたところで、Tateが、Southbankが、Picturehouseが、Institut françaisが、Royal Academyが、Royal Opera Houseが、どいつもこいつもみんな閉めますよ、っていじめのようにメールを落としてくる。(ボリスのやろう..) そして本屋もまた同様に…
逃げ道をすべて断たれていく絶体絶命のネズミみたいだとおもった。
Curzonはまだだ..  と思って今晩のチケットを取ったら19日から閉めると、そしてNational Galleryも..

会社からはおうちで仕事をしろだと。こんな状態で仕事ができるとおもうのか。
お片付け?  そこらじゅうに積んで山脈になっている本をどうしろってんだ? 読んじゃうじゃないか。

そしてスーパーに行ってみればトイペもティッシュもキッチンペーパーもない。卵もパスタもトマト缶もぜーんぜんない。
死ねってーのか(← おそすぎ)

というわけで当面はぐちぐちやけくそモードに突入します。
映画館と美術館とライブハウスと本屋とレコ屋に依存して生きてきた人がどこまでこの状態に耐えられるのか、じっけん。

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