3.02.2020

[film] 8½ (1963)

2月23日の日曜日、”Lourdes”に続けてBFIのFellini特集で見ました。2ヶ月続いた彼の特集で最後になった1本。
こんな映画史上の名作と呼ばれている作品でも見たことなかったの。

成功してきた中年の映画監督Guido Anselmi (Marcello Mastroianni)がいろんな危機(創作上の、ミドルエイジの、これらのごちゃごちゃ)に直面して、既に動き出している新作プロジェクトと、いまの逃げたくて実際に逃げまくっている現実と、ここまでに積みあがって来ている過去のあれこれと、それぞれに適度に挟まってくる実際と夢と理想と後悔が内面から外面から毛玉になって襲いかかってきて死にそうなの。

具体的にはこれまで関係してきた女優とか女性とか離れていた妻とか、幼年期の思い出したくない記憶とか、そこで抑圧的に働いていると思われるキリスト教に関わるあれこれとか、彼の目を醒まさせるなにかだったり、過去に引き戻すなにかだったり、でも全体が逃走のモードにあるなか、いくつかは救いでいくつかは災厄とかトラウマとして彼を直撃して果てのない逃走を加速させて、結果的には自分にも周りにも混乱をもたらすばかり。

主人公であるGuidoがいまの現実から目を逸らしたいと思っている以上、混沌を収束させることは難しくて、じゃあそれをどうするのか、というのが「クリエイティブ」な映画創作のプロセスと絡めて語られる。昨今のコンサルなら得意になってチャートと図解を駆使してこういうことですね! なのでソリューションはアプローチは … とかやりそうなネタなのだが、Felliniはそれを律儀に強引に自身の映画のなかで映画として展開しようとする。

これに対してそんなの知ったことかよ! とするか、これこそが映画について描いた映画の究極の姿では! とするかで評価は分かれて、その語りのスタイルの一貫性(or 支離滅裂さ)とそれを支えて成り立たせているであろう彼の(or 男性映画監督の)女性観とか宗教観を含めてどう見るか、それにどこまで乗れるか、ていうことなのかしら。

ここでの現実 - 冥界巡りって”La Dolce Vita” (1960)で世界の縁に立っていたジャーナリストのMarcello (Marcello Mastroianni)がやってきたことを映画製作の内側に適用してみただけ(あるいは「生活」から「お仕事」へ?)のような気もして、他にも今回の特集で見てきた彼の作品を振り返ってみると、そんなに突飛でぶっとんだことをやっているとも思えなくて、でもコトが「映画」とか「映画製作」に及ぶとなにぃっ! って偉そうなひとことを言いたくなる人(オトコ)がいっぱいいるらしいことはなんかわかる。そんなこと言ってなんになるんだろ、も含めて。

冒頭の渋滞のところ(あれ、R.E.M.の”Everybody Hurts” (1992) のPVの元ネタ?)とか、空中で糸が切れて落下とか、ばかでかいセットとか、みんな手を繋いでとか、いろんな顔や姿態でやってくる人たち、なにかのイメージとして、どこかで見た夢のなかに現れたことがありそうで、これこれ! ってあったようななかったような、その辺の微妙さ絶妙さって、モッツアレラとトマトとオリーブオイルだけでおいしい宇宙を現出してしまうイタリアンの魔法に近いなにかのような。

あとは2018年に先にCentennialを迎えたIngmar Bergmanのイメージの使い方 – 例えば”The Seventh Seal” (1957)あたりとの対比で、北欧と南欧の女性や神・悪魔の捉え方の違い、とか。

“8½” って、彼がそれまでに作った監督作の数、っていうのもあるけど、8がメビウスの輪なんだよね。内側と外側をぐるぐるまわって終わりがないフィルムの回転。そしてひとは常にそのどちらか側にしかいられない/しか見られない、という”½” 。最初のタイトルは”La bella confusion” -  “The Beautiful Confusion” だったって。

それか一日8½時間は寝たほうがいいよ、とか。

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