3.28.2019

[talk] Viv Albertine and Tracey Thorn

26日、火曜日の晩にBritish Libraryであったトーク。

昨年チケットが発売された時、当日に取ったら夕方には売り切れていた。そういうものよね。お代は£15。
司会はジャーナリストのAnita Sethiさん。男女比は女性の方がやはり多くて、年齢層は相当高め寄り。若い女子はぽつぽついたけど、若い男子はほとんどいなかったような気が。

このふたりなら70年代末から80年代初のUKシーンのこととか、こんなことあんなことあったよね話をいっぱい聞けるのではないか、というこちらの間抜けな思惑を軽く蹴っ飛ばす、とても深い内容でいまだに反芻しながら自分のことも含めてあれこれ考えている。 纏まっていないかもしれないけど、書かないと忘れていってしまうので、とりあえず書いてみる。

まずはTraceyから、こないだ出版された彼女のメモワール”Another Planet: A Teenager in Suburbia”からの抜粋 - 彼女が13歳の時に書いていた日記を朗読する。これがほんとに冴えない、ぼーっとしたやつで、友達に電話した、けど出なかった、とか、買い物にいった、けど閉まってた、そんなのばかり(場内爆笑。でも彼女のあの声だと歌のようにも聴こえたり)。こまめに日記に残していたわけではなく、そんなネタしかないくらい退屈で、八方ふさがりの日々で、70年代の中頃にロンドンからちょっと離れたサバービアに暮らす、というのは10代の子にとってはこういうことだったのだ、と。

続いて 昨年、同様のメモワール”To Throw Away Unopened”を出版したVivが朗読はしないものの、本のジャケットになっていて本文中にも写真が載っている、彼女の母親が亡くなった後に遺品の整理をしていて出てきた古いAer Lingusのバッグ – “To Throw Away Unopened” - 「開けずに捨てること」と表に殴り書きされたその中から出てきた母の60年代の日記(開けちゃったのね)のことを話す。 そしてやはり死後に彼女が見つけた60年代の父親の日記のこと - 丁度この時期、両親は離婚協議中で、それがあったので双方で記録を残していたのかもしれないが、これらを通して当時の両親が自分や妹のことをそれぞれどう見ていたのかを、父と母の見方の違いを知ることになった、と。

あまり時間を置かずに発表されたふたつのメモワールに共通しているのは、自分が10代の頃に書かれた日記(自分のであれ親のものであれ)を通して当時の自分の像を見つめ直し、そこから何故あの時の自分はやがて音楽活動に向かわざるを得なかったのか、を掘りさげてみる、そういう注意深さ生真面目さで、それ故にこれはありがちな田舎から出てきて成りあがったぜ!な自慢話からは遠い、普遍性を湛えたお話しになっているのだと思った。(Vivの本は父母の日記だけじゃないいろんな引用の織物になっていてすごくおもしろいので、誰か翻訳しないかしら)

話はそこを起点として、70年代(40年代並みに退屈だったって)に女性としてあるのはどういうことだったのか(真ん中を過ぎた頃になって突然Patti SmithやSiouxsie Sioux が現れるまで女性不在、誰もいなかった)とか、常にOutsiderであること、Boredomを受け容れて理解すること、それはほんとつまんなくて耐え難いものだったけど、今振り返ってみればmixed feelingで、あそこでの苛立ち - rageがあったから音楽や創作に向かうことができた、というのは言えるよね、と。

話は更にそこからWoman LiberalismやFeminismの方にも広がって、そりゃそうでしょとしか言いようがない。
Men’s Worldである音楽業界は当時からちっとも変わっていないよね、って。

過去の自分の日記から何かを見出したTraceyと、自分では決して日記を書かない(断言してた)けど両親の遺した日記から何かを発見したViv、どちらも自身の創作の根っこをあの頃のあの環境や境遇に置いているのはおもしろくて、それはきつくてつまんないとこで我慢しないとだめとか、あるいは腐れおやじが言うように若い頃に苦労しなきゃいかんとか、そういうことではぜんぜんないの。

そこに埋もれて浸かってしまうのではなく、常にOutsiderで、異端であれ、ということで、それは彼女たちの音楽を初めて聴いたとき – “Cut”は80年、81年くらい? ”Plain Sailing/ Goodbye Joe”の7inchは82年?- に感じた強烈な違和とも共鳴して、これまでの音とぜんぜん違って聴こえたなにか、ってそういうところから来たのかなあ、と。

で、さらに、そうやってoutside - 外側に立つ目線が過去に向かって今回のようなメモワールを書かせたのだとしたら、それがなぜ今、同じような時期に揺り動かされて発信され読まれなければならなかったのか、は自分たちで考えてみよう。

Traceyがティーンの頃にサバービアで見ていた景色と、自分が高校の頃「ニュータウン」で見ていたそれ - 圧倒的な退屈さつまんなさ – は同じなのか違うのか。 おもしろいと思うのは例えば岡崎京子が『東京ガールズブラボー』で描いた「東京」への憧れ、あそこにはEBTGとかも含まれていた気がするが、その彼らも似たようななにかを抱えてそこにたどり着いていたのかもしれない、ってこと。

そして、今の子達が抱えている(かもしれない)退屈さつまんなさ、って我々が見ていたそれとはおそらく違う。
どう違うのかは想像しようもないけど、彼らの退屈や苛立ちをそのまま吹かせておくようにするのが大人達の役目よね(退屈させないようにする、のではなくてさ)。

それにしてもViv、かっこよすぎ。Isabelle Huppertさま(Vivより一つ年上)みたいな問答無用感いっぱい。

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