3.12.2019

[film] Hannah (2017)

7日の木曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。日本公開はない気がするわ。

74thのヴェネツィア映画祭でCharlotte Ramplingさんが主演女優賞を獲っているイタリア映画。
上映にあわせて彼女のトークイベントもあったりしたのだが行けなかった。
レビューにChantal Akermanの”Jeanne Dielman, 23 Quai du Commerce, 1080 Bruxelles” (1975)とかMichael Hanekeへの言及があったので、なら見たいかも、と。

Hannah (Charlotte Rampling)は演劇のレッスンだかワークショップだかをしていたり、裕福なおうちに通いの家政婦をしていたりする主婦で、でも夫との会話は殆どなくて、食事中に電球が切れても黙って夫が球を取り替えたりしている。翌朝になると夫は刑務所と思われる施設に入っていって、彼女はひとりきりになるのだが、特に生活は変わらずに、プールで泳いだり、花を替えたり、夫の方にしかなついていない犬の世話をしたり、カメラはこれらの静かな無言の生活、地下鉄に乗って同じルートを往ったり来たりの日々を送る彼女の後ろ頭を中心に追っていく。

少しだけ笑みを見せるのは収監中の夫と面会する時と家政婦をしている家にいる目の見えない男の子の相手をするときくらいで、あとはずっとむっつりしているのと、演劇のレッスンで少しだけ自分ではない誰かを演じてみたり(その演技は – あたりまえかもだけど – ものすごくうまい)、それくらいが伺うことのできるちょっとした変化。

一度、孫の誕生日にケーキを焼いて作って手紙を書いて、誕生会で賑やかな息子の家に持っていくのだが、息子からはここには顔を見せるなと言っただろう、ときつく叱られてトイレでわんわん泣いてしょんぼりして帰る。そして夫との面会で孫は笑って喜んでくれたわ、という。

どういう事情でそういうこと - 言葉や叫びになって出てくるわけではないがどちらかと言えば疎外され抑圧されているかんじ、でも何によってかはわからない - になってしまったのか、家族や夫との間の過去の出来事は一切明かされないまま、それでも彼女の日常の動き、表情、表情の奥のもやもやはとてもよくわかる気になってくると、やがて彼女が犬を他の家族にあげてしまい、戸締りをして家を出て、なんの表情も表に出さずに階段を降りていくそれだけでものすごくこわくて。

“Jeanne Dielman …”にあった日常の動作の反復がラストのあれに向かって撚られながら整然と積みあがっていく恐怖ほどではないものの、彼女の頭のなかで静かに進行して止められない、これをどこかで断たないと自分はもう... がわんわんこだましている底なし穴を覗いているかんじ、はどこかで繋がっているようでおそろしい。 そしてこれを「おそろしい」と感じてしまう自分はどこに立って、どういう目で彼女(たち)を見ているのか、についても考えたい。

少し前の”45 Years” (2015)も、昨年みた”The Little Stranger” (2018)にしても”Red Sparrow” (2018)にしても、不機嫌で不穏な老婆の表情を変えず、でも自分は一切の手を下さずに加えずにただそこにいて血が流れおちるのを見ている、その目その姿のおっかないことときたらなくて、いまこんなような、家具とか置物みたいな演技ができるひと、誰がいるだろうか、と。

他方で、Hannahはわたしだ、というひとはいっぱいいるのではないかしら。

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