10.11.2018

[film] The Godfather: Part II (1974)

9月29日、土曜日の晩(前、日曜日って書いてたけどまちがい)、BFIで見ました。

これも4Kリストア版だったが、こちらはこの回を含めて2回しか上映がないので売り切れていた。
202分、どんなものか想像もつかなかったけど、いろいろ詰まっていてすごかったねえ。

前作でVito Corleoneの後を継いで”Don”となったMichael (Al Pacino)の話になると思ったら、すぐに話しは1901年のシシリーに飛んで、まだ子供のVito(Michaelのパパね)が地元のボスに家族をぜんぶ殺されてひとり逃げて、そこからNYのエリス島に移民として渡ってきた彼がVito Corleoneと名乗り、おそらく今のリトル・イタリーあたりに落ち着いて、こんな具合にふたつの時代の話しが交互に展開されていく。

59年のMichaelの時代は、マフィアとしてカジノ・ビジネスを拡張させていく途上で、Lake Tahoeの家を急襲されたMichaelがファミリー内も含めて犯人をあぶり出そうとするのと、その流れで革命直後の危ういHavanaに飛んでパートナーのHyman Roth (Lee Strasberg)とどんぱちやったり、並行して彼らのビジネスとその挙動が公聴会にかけられて衆目に晒されたり、いろんなことがとてもやりにくくなっていく様子、それに対する苛立ちが描かれる。

Old NYのVitoの方は成人してRobert De Niroになって、結婚して赤ん坊もいて真面目に働いていろいろ面倒見もよいのだが、地場を仕切っているやくざのDon Fanucciのせいで職を失い、仲間と泥棒稼業みたいなことをやるようになって、でもやっぱしDon Fanucciの所業を見るにつけだんだんRaging Bullになっていって、お祭りの日にたったひとり、Taxi Driverをやって、更にシシリーに戻って親兄弟のかたき討ちをやる。

Michaelの方は側近も家族もどんどん切ったり殺したりしていったらKay (Diane Keaton)からはもう一緒にいられないって離婚を切り出されて、そんなふうにファミリーの体をなさなくなって、ほとんどひとりになっても続けなければいけないなにかって、一体なんなのか、と。

Vitoの方のお話しの方の最後は、Vitoの誕生日のお祝いの席で、なのに真珠湾の後ということもあって、Michaelは軍隊に入るから、ってひとりで飛びだしていっちゃうので残された家族はぽかん。

つまり結局、Michaelは終わりにはずっとひとりで行動していて、それをたったひとりでNYに渡ってこの稼業を始めたVitoと重ねることで、ファミリーを興す、それを維持することの面倒くささ - 最後はなにを言われてもひとりでやるしかない、というその孤独なありようを描いている。

のと、そこに20世紀の前半部分、シシリーの田舎の小競り合いで弾かれた子が移民となってNYに渡ってでっかい財を築く、それを革命や戦争、富国といった歴史の流れ、ヨーロッパからアメリカ、アメリカから中南米 - キューバ、アメリカ国内でもNYからベガス – ネバダ、という地理的な拡がり - 膨張としか言いようのない拡がりと高まりのストーリー上に置いてみること。

それは華々しく喧伝されるような夢物語では決してない地味な庭先の相談事から始まって暴力と裏切りの間を往ったり来たりするばかりの徒労感たっぷりのやつだった、と。

配布されたプログラムノート(Peter Cowie, The Godfather Book, 1997 からの抜粋)には前作から今作までの準備期間にCoppolaが製作スタッフに指示した膨大な量の調査収集のことが書いてあって、あれをそのまま実現できていたら”Gangs of New York” (2002) - これは19世紀の話しだけど - なんかとても及ばないNYの一大歴史絵巻になっていたのかも、って。
(”Apocalypse Now”の製作に向かう狂気の兆候が..)

Robert De Niroはよいのだけど、これを若い頃のMarlon Brandoが演じていたら.. とかつい夢想してしまう。 ものすごく微妙なところでなにかが違うかんじがして。

Al Pacinoは、例によって何が彼を突き動かしているのかがまったく見えない、その異様な暗さに磨きがかかっていてたまんない。 いまの時代のリーダーに求められるあらゆる要素を全部切り捨ててコンプラ系もまっ黒で、でも超然としている。
あ、べつにリーダーじゃないのか、”Father”なのか。

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