10.21.2012

[film] Les Chansons d'Amour (2007)

14日、日曜日の午後にアンスティチュで見ました。『ラブ・ソング』。
13日の『不景気は終わった』の後の上映もあって、こっちはトークと更に晩には音楽を手がけたAlex Beaupainのライブもあったのだが、そこまで深入りするのもなぜかためらわれ。

これも2007年のカイエ週間で、"La France"と同じ頃に見ていて、2回目。

出版社に勤めるイスマエル (Louis Garrel)は恋人のジュリーと暮らしていて、そこにある日彼の職場の同僚のアリスがやってきて、なんとなく一緒に暮らしはじめる。 3人でやったり女同士でやったりしている(関係者談)ようで、表面上はそんなに深刻な関係ではなく楽しくやっていたようだったのだが、ある日みんなでライブに出かけた先でジュリーが倒れて突然亡くなってしまう。

彼女の死をきっかけにいろんなことががたがたし始め、アリスはライブで出会った別の男と一緒になり、その男の弟がイスマエルのとこに子犬のようについてくる。生前から仲のよかったジュリーの家族、特にジュリーの姉のジニー(Chiara Mastroianni)は心神喪失状態のイスマエルを心配して気をかける。 イスマエルどこへ行くの…  というおはなし。

「別れ」-「不在」-「帰還」(だった、たしか)の3部構成になっていて、誰かに向けての、誰かとの間での歌(ラブ・ソング)が大きな役割をもつ。「誰か」というのはイスマエルの周りに家族のように(イスマエルの家族は出てこない)近しくいる人たちとイスマエルのことで、近くにいる彼らは皆、イスマエルに立ち直って元気になってほしい、と祈っていて、イスマエルはそれを十分わかっているのだがしかし、自分でも予期していなかったほうにそれは転がっていく。 
あらあらあら、って笑うしかないくらいに。

これの前年に作られた『パリの中で』- "Dans Paris" - を見たあとでこれを見ると、繋がっている、というかふたつの作品は鏡のような関係にあることがわかる。
『パリの中で』で意気阻喪していた兄の心配をしていたおちゃらけ弟のLouis Garrel(ジョナタンという名前だった)は、今作であらゆる災厄と喪失状態を自身がひっかぶって、自分の家族ではない人たちからも心配される側にまわって、でもやはりどうすることもできない。

「悲しみは目の色と同じで他のひとにはどうすることもできない」、という『パリの中で』にあったテーマはそのまま引き継がれ、その境界上で、あちら側とこちら側の間でロープが投げられ、歌がうたわれる。 その限りにおいて物語としての不自然さとか強引さはなくて、「不在」のあとの「帰還」は、息を吸いこんで声にしてそれが歌になる、そのあらゆる可能性を広げてみせる。

でもそれはよくありがちな「悲しみ」の後の「再生」というのとは違うの。
イスマエルの悲しみが前面に出てくることはないし、映画は夜のシーンが多いものの決して暗さに留まることなく、イスマエル、歌え! やりまくれ! ていう。

ほんとにすてきなんだよねー。

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