7.25.2023

[film] Bellissima (1951)

7月16日、日曜日の昼、シネマヴェーラの特集『ネオレアリズモ II』で見ました。
この特集、感想書けていないけど、地味に7本くらい見ていて、どれも衝撃的におもしろいよ。戦前状態のいまのこの国にもうまくはまるし。今回上映されなかった『神の道化師、フランチェスコ』(1950)は自分の生涯ベスト10に必ず入るやつだし。

英語題は”Beautiful”。邦題は『ベリッシマ』。
監督はLuchino Viscontiで、助監督にはFrancesco RosiとFranco Zeffirelliの名前がある。バックステージもので、貴族のViscontiはこんな庶民のホーム・コメディみたいのも撮っていたんだー。「ネオリアリズモ」って何? ってあんましわからない状態でネオリアリズモにおけるコメディとは? と問えば、例えば今回のラインナップにもあるフェリーニの『白い酋長』- “Lo Sceicco Bianco” (1951)のような、貧困などで失うものが何もなくなった女性がなりふり構わず走り回って結果なんとかなっちゃった、みたいなかんじもあり、この作品だとスターシステムへの批判や風刺とか、あるいは困窮生活への目線もあったりする? これらの中心でじたばたして笑いの対象とされてしまうのは割と女性、可哀想の対象にされがちなのは子供、っていうあたりがちょっとあれだけど。

Maddalena (Anna Magnani)は一人娘のMaria (Tina Apicella)をスターにすべく激烈に走り回っていて、有名な映画監督(Alessandro Blasetti - 本人も映画監督)の次回作の主演となる子役のオーディションにこの役もらった! って乗りこんでいって自分の娘がぜったい一番だ! って周囲に顰蹙をかったり大騒ぎしながらMariaをいろんな関係者にぶつけたりぶん回したり暴走が止まらない。夫/父親なんてクズの役立たずなのでいなくてよいし初めから相手にしていない。

なんで映画なのかといえば、それが今の貧困から抜け出すための最後の術であり夢であるから - 当時の映画産業というのはそれくらいの威光を放っていたのが最初のほうの群衆シーンだけでもわかって、だから役柄がバレリーナだと言われればバレエ教室に通わせてなんで他の子みたいにあんなふうに踊らせないのか?って文句を言ってつまみだされ、この世界はコネがすべてだからって、スタッフだという詐欺師にしか見えない若造にお財布はたいて大金を渡し、彼はその金でスクーターを買っていたり、美容室に行けばそこにいた関係ないガキがMariaのおさげ髪をばっさりしてしまったり、MaddalenaもMariaも、なにをやってもなにやってるのあなた? って場違いな笑いの対象にしかならずに地団駄踏んでばかり。(逆にずっとお人形扱いのまま、なにを言っても泣いても気づいて貰えない聞いて貰えないMariaのかわいそうなこと)

それにしても、Anna Magnaniはなにをやっても喋っても飛びぬけてすごすぎて、彼女が右に左にわあわあ叫びながら走り回るのを見ているだけでこのお話しは - 彼女にとってはそうでないだろうけど - おもしろくて目が離せない。Anna Magnaniが呻いて、腹の底から搾りだすような声をだして感情をむき出しにしてこっちに向かって思いをぶつけてくるその強さ - 『無防備都市』では倒されてしまったけど、ここでは周囲のぼんくらとか映画関係者をなぎ倒していく痛快さがあるの。BellissimaってMariaじゃなくて彼女のこととしか思えない。

でも、最後に候補者のテストリールをスタッフ全員で見る最終選考の様子を部屋の裏から見せて貰えることになったMaddalenaは、スタッフがスクリーン上のMariaを見て笑うのを見たところで、「私は誰かを笑わせるためにあの子を産んだのではない」って毅然と言い放って撮影所を蹴っ飛ばして出ていくの。彼女をあそこまで奮わせて狂わせて最後まで走らせたものはなんだったのか、がここで反転するように明らかになって、それを「リアリズム」のような分類で括ってしまってよいのかわからないのだが、それでぜんぜんよい気がした。その後のやっぱりね.. みたいなハッピーエンディングは、別になくても。


とにかくあまりに暑すぎてなんもやるきにならない … って我慢していたけどついに書く。ほんといいかげんにして。

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