3.21.2022

[film] 娘・妻・母 (1960)

3月13日の日曜日、ラピュタ阿佐ヶ谷の原節子特集で見ました。
監督は成瀬巳喜男、製作は藤本真澄、井手俊郎と松山善三の共同脚本(こてこて)。

高度成長期のホームドラマでこのタイトル(「娘・嫁・母」じゃないだけましか)、となるとそれだけでなんか見えてしまう。これがネタどころかおおまじでこの役割期待を生きろ/生きるとは、って嵌めてこようとする視線の気持ち悪さ。もちろん成瀬なのでそのぬたくる粘液の飛沫まで描きだしてくれるのでたまんないのだが、それにしても。久々に田舎の親戚に会って(ほぼ会わないけど)見ないようにしてきたあれこれをほじくり返されて、なすすべもなく陥落(なにが?)して会話できなくなっていくかんじが容赦なく襲ってくる。

三益愛子が母で、東京の商家に嫁いでいた長女の原節子は夫が亡くなって母の住処に戻ってきて、長男の森雅之は高峰秀子(..『浮雲』コンビ)と夫婦で母と同居していて、お調子者の次男が宝田明(追悼..)でその妻が淡路恵子で、次女は草笛光子で、嫁いだ先がママに頭のあがらない小泉博のとこで姑が杉村春子で、未婚でちゃっかりもんの三女が団令子で、中心の家族だけでもこれだけのスターが揃ってたっぷりぐだぐだしてくれる。

森雅之が旧知の加東大介の工場にお金を貸していたらその工場が潰れて雲隠れされて、見込んでいた老後のあれこれがぜんぶ吹っ飛んで家を売らなければならないくらい深刻な事態に陥っていることがわかってどうしよう、という話。

母は既に家長ではないからなんも言えないし、母の面倒を長男に押しつけてきた他の子達も文句言ってどうなるもんでもないし、みんな自分の明日の暮らしで手一杯だし、こうして(物理的な or 理念としての)家をどうするのか、お金(資産財産)の分配をどうするのか、誰とどういう立場(娘・妻・母)で何をやって過ごす(乗り切る or 見限る)のか、などが目の前の難題として現れてきて、それらが「難題」と見られていることがわかった途端に母-杉村春子のようにどうせあたしはお荷物ですよ、って毒々しくなるか、母-三益愛子のように道端で泣き出してしまうか。

男 - 特に長男が家を継いで娘は他所に嫁いで、継ごうが他に行こうがそこの足下のイエを経済的にどうにかして継続させるのが戦後(核)家族の基本原則の共通認識になっているのだが、この継続性って思っているほど確りしたもんじゃないどころか碌なもんじゃないのだ、というのが事故や災害のように助けあわなきゃ - じゃない時に露わになる、その半端で生々しい右往左往。必死になるほどのことじゃない、けど、だから、身を切るようなことはしたくない、結果途端によそよそしくなったり、解決策も「お母さんを他人と思うようにすればいい」とか - いやそもそも他人なんですけど。

こういう家族内の修羅場ドラマは日本だけのではなくて、例えばデプレシャンなどにもあると思うのだが、向こうのは血とか怨とか、そういうところに向かう(気がする)し、日本でも小津のドラマだと「なぜ?」「なんで?」っていう観念的な問いのまわりをぐるぐるしていく(気がする)のに対して、ここのは「じゃあどうするの?(How?)」っていうところで全員 - なぜか主に女性たち - がこちょこちょ動いたり口出したり、でも結果としてはあまり進展しない - 誰かが泣いてどうにか - の極めてにっぽんの家族のお話になっている(気がした)。

そんなふうに町工場的にオーケストレートされたアンサンブルのなかで、ブドウ園の技師をしている仲代達矢と原節子の中学生みたいにぎこちない恋とキスのところはよいかんじに浮いて生々しくて素敵、なのだが若い頃の仲代達矢って、何やってても目が泳いで何考えているのかわかんないふうでちょっと不気味だと思う。

とにかく、ここに出てくる男達は - 仲代達矢も含めて - 全員 - 見事に全員 - ダメすぎ、試験したら全員落第、っていう結論でよいのかも。最後に乳母車をひいて救世主のように現れる笠智衆にしたって息子の嫁に怒鳴られているというし、あいつら全員どっかに捨てちゃえば未来は明るく、みんな楽になれるよ - と娘・妻・母は思ったに違いない。

あの後、三益愛子と笠智衆が一緒になって、すると原節子は義理の娘になるので、東京物語ごっこをしたのではないか。

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