12.21.2023

[film] May December (2023)

12月16日、土曜日の晩、アメリカのNetflixに繋いで見ました。
いろいろばたばたで動けなくなったときにはこうやって。

本当にあったMary Kay Letourneauの話をSamy BurchとAlex Mechanikがストーリーとしてまとめて、Samy Burchが脚色、監督はTodd Haynes、撮影はChristopher Blauvelt(最初はEdward Lachmanが撮るはずだったって.. )、音楽はMarcelo Zarvos - “The Go-Between” (1971)のMichel Legrandの音楽を緩く引用している 。それぞれのいろんな粒が要素が、どの画面もすばらしく映画〜 してくるのでいちいちたまんない。

Natalie PortmanとJulianne Moore、そもそもぜんぜん似ていないと思っていたのだが、この映画のポスターのふたりときたら…

女優のElizabeth (Natalie Portman)が、次のフィルムで演じる役柄のスタディと役作りでジョージア州のサバナのある家にやってくる。彼女のモデルとなるのは59歳の主婦Gracie Atherton-Yoo (Julianne Moore)で、若い夫のJoe (Charles Melton)がいて子供たちもいて、一見朗らかで平和そうな家庭なのだが、それだけでElizabethがやってくるはずもない。

Elizabethが探偵、という程のノリではないものの家のなかや家族の様子を見ていくなかで明らかにされていく過去とは、1992年にタブロイド周辺を騒がせたGracieが当時13歳で前夫との間の子 - Georgie (Cory Michael Smith)のクラスメートだったJoeをふたりがバイトしていたペットショップで誘惑して関係をもって逮捕されて収監された、という一連の事件 – 当時の記事がスクラップで – その後刑務所で彼の子を出産したGracieは出所後にJoeと結婚して、3人の子供ができた、と。それは犯罪だったのか、愛もあったのか。

そんな一連の過去を押さえたうえで、ElizabethはGracieの日々を自身のふるまいに転写すべく家族の行事 - 子供の卒業祝いやディナー – に参加したり、当時を知る関係者 – Gracieの前夫、弁護士、Georgie、もちろんJoeに(JoeとElizabethは同い年だった)インタビューしたり、事件の発端となったペットショップに行ってみたり、あるいはGracieの双子の娘の高校に行って演劇のクラスでQ&Aをしたり、Joeとマリファナをやったりセックスをしてしまったり、彼女のそもそもの目的がスタディする対象とその周囲に寄っていくにつれてぐんにゃりと捩れて、彼女自身の演技と役柄の境目が危うくなってくる – という薄っすらとこわくなっていくメロドラマ、だろうか? あるいはコメディ、に転びうるのか? 甘さも切なさもない、過去は助けてくれない。

家族がElizabethに語るGracieの正体や噂について、どこまでリアルに信じて演じればよいのか - そこには愛もあれば邪念もあるし、時間の経過と共に変わってきたそれらもあるし、成長と安定それぞれに向かう思いもあれば欲望もあり、ある曲がりくねった人物の軌跡を女優として写し取って統合させることの難しさ – Joeの飼育している蝶の羽化のシーン – が複雑な家族のありようのなかで誰も助けてくれないなにか、としてやってくる。

Julianne Mooreが演じるGracieは彼女の演じる女性がいつもそうであるように、降りかかる運命にひとり震え慄きつつ、それでも立ち向かうあれ、を基調としつつ、あんた(たち)になにがわかるのよ、的な不遜さをさばさばと隠そうともせず、結果としてあのファミリーの頂点に君臨している(ように見える)。

そんな彼女の像に迫っていくNatalie Portmanは中堅どころの女優としてのプライドを保ちつつ、かつて生々しい事件を起こした加害者 - 被害者 - でも家族? という外から見たら謎のサークルに触れてびっくりしたり揺れたりしながらもゆっくりと変容し、その制御できるできないの境界線上で困惑している(ように見える)。

Todd Haynesの前作 – “The Velvet Underground” (2021)のあの曲 - ”I’ll be Your Mirror – Reflect What You Are”を思い浮かべたり、Ingmar Bergmanの”Persona” (1966)や”Winter Light” (1963)の一部に監督がインスパイアされた、というのを知って、治療に向かおうとした先で起こる転移とか、でも肝心なところには手の届かないし助けなんてやってこない、こんな近くなのに触れることのできないなにか、について思ったり。

あとは、こないだの日仏でのギトリの『これで三度目』のなかで示された、演劇と愛、人生をめぐる反転や分身のテーマについて思った。あのコメディでは演劇の側に人生を強引に引き寄せてしまう(愛の)アクロバットがあったが、ここにはそれをやろうとした若い女優がモデルとなった毒婦とされた女性の側に意図せずに引き摺りこまれていくスリルとサスペンスがある。

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