12.05.2023

[film] 月夜鴉 (1939)

11月30日の午後、国立映画アーカイブの特集『返還映画コレクション(1)―第一次・劇映画篇』から見ました。
上映後に木下千花さんのトークあり。

この特集だと、11月29日に石田民三の『三尺左吾平』(1944)を見てて、でもこれここで前に見たことあるやつだった。彼の最後の作品というのもあるのか、ちょっとパワーがないような。

監督は井上金太郎、原作は川口松太郎、脚本は秋篠珊次郎&依田義賢、解説文にはスクリューボール・コメディタッチとあったが、すばらしい芸道物 – 見ていておおこれはすごいぞ、ってぞくぞくしてくるやつ、そうあることじゃない。

三味線の家元 - 杵屋和十郎(藤野秀夫)の娘のお勝(飯塚敏子)は三味線の腕は確かなのだが、20代後半で貰い手/貰われ手もいないままずっとひとりでへっちゃらで、このままではこの家を継げない、って父親は嘆いてばかりで、そんななか若い17歳の和吉(髙田浩吉)がお勝に稽古をつけてください、田舎の家に戻されたら死んでしまいます、って彼女に泣いて頼んであまりにうるさいので、しょうがないねえ、ってビンタ体罰満載の特訓を施していくうちに四季が過ぎる。

こうして気がつけば誰のところに出してもおかしくない凄腕にしれっと育っていた和吉 – でもメンタルはなよなよのままお勝にべったり - が、お前たちいいかげんにしないか、になってきた父和十郎や親族たちをあんぐりさせて蹴っとばしていく終盤が痛快で、ああよいものを見た、になる。

最初のうちは余裕たっぷりに和吉をしごいていたお勝が、情が移ったのかどこまでも犬のように慕ってくるのに負けたのか和吉を好きになってしまい、このままわたしが傍にいてはいけない、って決意したお勝が、小さい姪っこに和吉への伝言 – 舞台で弾く時は遠くの一点を見つめるように、っていうのと、もう出ていきます、ひとりで強く生きて – を残して、それでもやっぱり我慢できずに客席から和吉の芸をじっと見つめるお勝と、ずっとめそめそして合同リハーサルにも出れずに周囲の顰蹙まみれのぶっつけで舞台にあがった和吉の目がひとつの線で結ばれる瞬間の鳥肌ときたら。

どうかこのまま悲恋で終わったりしませんように、って最後まで気が抜けず祈るように見ていたのだが、なんとかどうにかなって、このふたりは永遠になったの。

出演時、高田浩吉のリアル年齢は27歳で、飯塚敏子の方は24歳、和吉のほうが3歳上だったのだが、まったくそうは見えない上手さ、というか始めのほう、仏頂面のお勝が田舎のぼんくら顔の和吉をどついてひっぱたいて和吉がそれに応えてがんばるうちにふたりの顔立ちがどんどん四季と共に変わって移ろって、そこにスクリューボールコメディに必要な階層の壁や障害が被さって最後に恋するふたりの顔になって寄り添っていくのがたまんなくよいの。 あと10回くらいは見たい。


上映後の木下さんの講義 – トークというより講義 – はものすごく濃くてとても勉強になった - あのスライドほしい。

特に芸道物 – パフォーミングアーツ- 芸道に精進する人物と恋人など人間関係の相克を描くドラマが戦時中の逃避として機能した、という点。 芸道で描かれる古いがちがちの芝居の世界が戦時のプロパガンダと地続きの土俵にあるその向こう側で、芸道の世界は精進すれば、実力をつけさえすれば女性であろうと身分がどうであろうと関係なく、明治であろうと江戸であろうと時代の壁すらも超えた「自由」や「恋」を享受することができた。それがどんなに儚く切ないものであったとしても - 切なくあればあるほど。

そして、そんな自由のなかで自在になされたメディアミックス。原作小説からのアダプテーションだけでなく、新派の舞台なども含めて。

あと、今回の特集であるところの「返還映画」について。元はアメリカの日系コミュニティで上映されていたものが接収されそれが返還されて、本土でオリジナルが焼失などしても、こうして見ることができる。 というのと、なぜ接収されたのか、を考えるとき、芸道物の八方美人なところが戦争と占領下においてどんな見えかたをしたのか、等。

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