9.05.2023

[film] Fifi Martingale (2001)

8月27日、土曜日の昼、ユーロスペースのジャック・ロジェ特集で見ました。

邦題はそのまま『フィフィ・マルタンガル』。日本では劇場初公開で、Jacques Rozierの最後の長編監督作となる。脚本は”Maine Ocean” (1986)と同じくJacques RozierとLydia Feldの共同。

相変わらず奔放かつ適当に転がっていくかんじがたまんなくて目が離せないのだが、みんなの楽しい逆立ちヴァカンスがメインにくるわけではなくて、バックステージもの。なんでそれ? という唐突感はあるものの、古くからあるジャンルとしての股旅ものとバックステージもの - 日常のあれこれから離れた非日常イベントの内と外で、方々から潜りこんできた変な人たちが自由に好き勝手に振舞ってえらいことになる(でも結果オーライ - 誰も責任とらない)、というどたばたコメディの基本は変わっていないような。

パリでヒットしているブールヴァール劇『イースターエッグ』のリハーサルで年老いた俳優のYves (Yves Afonso)が劇場に着いたところで足を轢かれて、どうする? になると入れ違いのように田舎で芝居をやっているというGaston (Jean Lefebvre)がここの舞台でやらせてほしい(自分はできるから)、って現れたり、そこを仕切っている劇作家は上演しようとしている自分の稚拙な劇がモリエール賞なんぞを受賞したことに我慢ならないようで、これから改変して目にモノ見せてやる! って(誰か - 誰?)に向かって吠えるのだが、その場にいた全員がこいつはなにを言っているのかどうするんだ? になって頭を抱える。

とりあえず台詞を一瞬で憶えられる特殊能力をもったGastonが代役に立つことになって、彼は前借りした出演料を手に女優のFifi (Lili Vonderfeld - Lydia Feld)を連れてブルゴーニュの方のカジノに向かい、赤黒に賭けるルーレットでMartingale法 - 負けたら次は常にその倍の金額を賭ける - で大儲けして、意気揚々と戻って客を入れたガラ公演が始まるのだが、Gastonはそれだけが取り柄だった台詞をぜんぶ忘れてしまい、プロンプターの指示も無視しまくりで全員が真っ青になるのだが、バルコニーにいた宴会ギター野郎どもがじゃんじゃか弾いて歌って盛りあげてくれて、客席も含めた全員が? 状態のままイースターエッグ見つかってよかったなー最高~ みたいなしゃんしゃん、になる …

なんとなく、こないだ見たフェリーニの”Luci del varietà” (1950) - 『寄席の脚光』の頑固芸人たちが巻き起こす終わりのない彷徨いを思いだした。未来があるとは思えないのに、まじめにこつこつやらないとやばいのに、そんなつもり微塵もない。なにか起こっても自分らのやり方をなにひとつ変えずに超然としてて、結果的には一歩も進んでいない振りだしの地点に立っていて、それみろ/どうするよ? みたいな顔をしていたり。

Jacques Rozierのヴァカンスものにあった昼間の浜や砂州の風通しのよさはシアターやカジノの扉の奥とその向こう側に閉ざされて、その密閉されたかんじがおじさんたちのとぐろを巻いた胡散臭さに磨きをかける – これってあえて探すとしたら”Maine Ocean”に出てきたNYの興業主のおじさんのそれと同じようなノリで、どこかからか無責任に湧いてきて、とにかくしぶとくぶっとくて、消滅したりしない。

(カジノのとこ、”Bob le flambeur” (1956) - 『賭博師ボブ』みたいになったらおもしろかったのに)

そしてそんな様相が悪の渦巻く極悪な磁場をつくるかと思いきや、あれこれ揺さぶられて網の上で煎餅がひっくり返るようにお祭りのようにいろんなものが弾け飛んで制御不能になってもうなんでもいいや… って。

こうして、こんなふうに先の見えない誰も責任とらないリハーサル状態が延々続いてどこまでも終わらず、いつまで経っても「本番」にはたどり着けなくて、登場人物みんなが遭難者たちになってしまう、と。

で、そんな遭難した状態がやばいとか、自分が遭難しているなんて誰ひとりとして思っていない、というふてぶてしくよいかんじ。こういうの、狙ってだせるもんでも適当にやってでてくるもんでもなくて、やっぱりJacques Rozierってすごいな、になったの。
 

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