9.28.2023

[film] Comment je me suis disputé… (ma vie sexuelle) (1996)

9月18日、祝日の月曜日、日仏学院のArnaud Desplechin特集で見ました。

ほぼ若者たちのダイアログ(or 独白)で進んでいく約3時間のドラマ。長めの青春映画、という点では『ママと娼婦』(1973)の90年代版と言ってよいのかどうか。

邦題は『そして僕は恋をする』- これはうまいよなー、90年代ってかんじだし。

原題をそのまま訳すと「僕はどう主張したか...(僕のセックス・ライフ)」だし、英語題の“My Sex Life... or How I Got into an Argument”だと、「僕のセックス・ライフ… あるいはどうやって議論に巻きこまれたのか」だし、ただどちらにしても、(この話は男性が主人公なので)女性とのセックスと議論・口論・おしゃべりがひとつのストリームとなってある時期の彼の生を覆うように渦巻くように形作っていた、それがどんなふうだったのかを(本人にはそんなつもりなかったと思うけど)生き急ぐことになってしまったPaul Dedalus (Mathieu Amalric)を軸に描く。

『ママと娼婦』について言えば、これも女性ふたりに巻きとられ刈られてその下に埋もれてしまうはめにあうAlexandreのセックス・ライフのお話しと言えないこともないので、主人公の語りのばかばかしく尊大で壮大なの(ほめてる)も含めて比べてみたらおもしろいかも。そして、この手のしょうもないおとこの独り語りの起源、というか究極がプルーストの『失われた時を求めて』であることは言うまでもないの。

Paulには10年付きあってきてうまくいっていないEsther (Emmanuelle Devos)がいて、もう見切りをつけていろんな女性とつきあおうとして、学業では天敵だったかつての同級生が猿を連れて自分の上のポストにつこうとしていたり、恋もキャリアもすべてがどん詰まりの排水口に向かってなだらかに吸いこまれていこうとしているのに、自分はなにやっているのやら…. っていう顔でいろんなところを渡っていく。

「恋と冒険」と呼ぶほどにはぱっとしないMTVの”The Real World” - 90年代の - みたいに半端な穴 - “Argument”に嵌りこんだ暗さと湿り気があって、でもそのトンネルはこちらの世界と繋がっているような錯覚をもたらしてくれて、でも先が見えない読めない空気は変わらないのよね、っていう青春映画で、この映画のPaul Dédalusが他のに出てくる彼と比べていちばんPaul Dédalusだと思う。

ここの主人公から、次作では決してArgumentに辿り着かない、人付き合いのようなところにすら行けないEsther Kahnに行った、というのはおもしろいかも。

あと、音楽はPJ Harveyから“Daphnis et Chloé”まで、Desplechin作品のなかでは一番好きかも。


Rois et reine (2004)

上のに続けて見ました - ”Kings and Queen”。 これも何度も見ている大好きなやつで、『そして僕は恋をする』を見てからこれ、ってこんなにすばらしい休日の午後~晩があるだろうか。どっちも長いけど見ていて心地よくなっていくのが不思議。決して明るい話ではないのに。

小汚い学生たちのドラマから穏やかな陽光に包まれるかのように - ”Moon River”が画面を包み、実業家と再婚しようとしていてとても幸せそうなNora (Emmanuelle Devos)のお話しになる。

でも実際には彼女の父Louis (Maurice Garrel)は末期がんで亡くなろうとしているし、自殺した元夫の幽霊(Joachim Salinger)は現れるし、息子のEliasはガラスのように脆くて危ういし、なんなのよ!って困って身の回りで唯一まともそうな狂人の - 精神病院に入れられている - 二番目の夫Ismaël (Mathieu Amalric)に助けを求めようと – EliasにIsmaëlの養子になってもらおうと - する。

こんなふうに複数のKingたちはどいつもこいつもろくなもんじゃなくて、獰猛に彼女に嚙みつこうとしたり毒を盛ったりしてくるのだが、それでも泣いたり嘆いたりしている彼女が結局いちばん強い唯一無二のQueenであることがわかってくる。彼女をそういうふうに仕立てて、結果的に輝かせてきたものはなんだったのか、勿論それは(いつものように)明確に示されることはないのだが、NoraとIsmaël – あとCatherine Deneuveの女医も – のタフなこと、憎しみの海をざぶざぶ渡っていく強さってどこから来るのか。それってPaul Dédalusが”Argument”- ってじたばた自分からぶつかって転がっていくのとはまったく別の、なんでこんなことすら手にするのが許されないのじゃ? という女/神の目線での優雅さに近いものが彼女を運んでいって、父を殺して子を捨てて、実際に彼女は緩やかに勝利する、という女性映画で、そこにはみんなが納得して、冥界の煉獄に繋がれたMaurice Garrelの砂にまみれた呻きもそうだろうなー、って思う。彼女の世界は変わらない - 変える必要なんてない、女王なのだからー。

「家族」っていったいなにがどうなったら「家族」と呼べるのか、それを決めるのは、壊すのはどこの誰なのか、変わるもの変わらないものがあるとしたらなんなのか、見れば見るほどわからなくなっていくよ、というのがDesplechinが家族を撮るときのベースにある気がして、そのへんは彼の最新作でも。

29日、久々に見るはずだった『クリスマス・ストーリー』、チケット買って楽しみにしていたのにいまはロンドン…

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。