7.15.2022

[film] Marketa Lazarová (1967)

7月7日、木曜日の晩にイメージフォーラムで見ました。七夕の晩にこんなの見てなにをしてほしいというのか。

邦題は『マルケータ・ラザロヴァー』。 原作はチェコのVladislav Vančuraの同名小説 (1931)、これを同じくチェコのFrantišek Vláčilが脚本・監督していて、1998年のチェコの批評家によるチェコ映画オールタイムベストに選ばれている。現地での公開の1年後に「プラハの春」が起こったというのが興味深い。日本ではこれが55年を経ての劇場初公開となると。オリジナルのポスターはおどろおどろのゴス仕様なのだが、日本のってなんで.. (?)

撮影スタッフも俳優も実際に山奥で暮らしながら548日間ロケしてみんなで13世紀マインドにしたとか。パート1が「狼男 ストラバ」、パート2が「神の子羊」。俳優の声は後から被せてあるようで、たまにエコーがかかったり距離感が違うように聞こえてきたり、それもおもしろい効果を生んでいる - 喋り言葉なんてどう聞こえようが獣の声とおなじで誰も聞いてやしない、とか。

モノクロで、真っ白な雪原を熊みたいにでっかい(でっかく見える)狼?の群れがざーっと渡っていって、それだけでたまんない。狼はこの後も何度も出てくる。 舞台は13世紀半ば、ボヘミア王国が舞台らしいが勿論そんな説明は入らず(そう言われたからと言ってわかるわけもなく)、雪のなかを行く隊列が道端にいた片腕がなくて喋らない青年をからかって転がしたら逆に襲われて拐われて、この時点では - というかこれ以降ずっと、どっちがどういう部族なのか宗派なのか集団なのかよくわからない男たちが交互に襲ったり襲われたり殺したりを繰り返していって - 時系列も行ったり戻ったりする、その遠近の中で領主とその家族、王族直下の軍、盗賊とその家族、といったいくつかの群れが見えてくる。のだがみんな毛皮を被っていてどれも髭面だったりするので、名前はもちろん、誰が誰やらを判別するのは難しい。しなくても平気なのだが、そんな中、なぜ” Marketa Lazarová”という女性の固有名だけがタイトルとして浮上してくるのか?

3つの勢力は王家直属の伯爵と、盗賊をやっている領主コズリーク(Josef Kemr)の一族ともうひとつの領主ラザル(Michal Kozuch)の一族で、コズリークの息子が伯爵の一行を襲って捕虜を捕ったところから始まる三族間三つ巴のほぼ思い通りにいかない策謀に交渉、裏切り、結果としての略奪に凌辱に殺害、そこで暴力の通貨のように取引されたり引き摺られたりする修道女となるはずだったラザルの家のマルケータ(Magda Vásáryová)と捕虜に恋してしまうコズリークの娘アレクサンドラ(Pavla Polaskova)たち。

第二部では道化師のような野良修道士ベルナルド(Vladimír Mensík) - 彼自身も引き回されたり散々な目にあう - の少しだけ上空に上った目を通してそれぞれの運命 - ヒトというよりは迷える羊としての - が語られて、でも今さらキリスト教だの神だの言ってもさー、どこの国の話さ? って野良の狼は思う。

例えば我々の無意識のようなところに植えつけられている(と思う)神話のコードやイメージの通りに展開していく(ように見える)親族や野生、その中空にある聖性に対する暴力や野蛮のありようを遠慮なく – それこそ野蛮に真っ白い雪原にぶちまけてみて、神なんてなんでえ… ってマルケータは思い、それでもなんか「愛」のようなものが隅っこに..  あったりするのか? どこに?

という問いを絶えず喚起するかのように狼その他動物たちは原野を走り回り、男たちは同様に群れて集って指差しあって殺したり奪ったり、女たちは都度目を見開いて空を仰いで手をかざし、そして神は.. (そんなんいるのか? どこに?)

最近の人たちが見ると“Game of Thrones” - 途中までしか見てない - で展開される原始の善と悪の(割とわかりやすい)陣地取り合戦を、よりアナーキーにばらばらに示して、なんの希望も救いもないような原野をぶっきらぼうに見せて、途方に暮れさせてくれるような。

偶然だけど、これと同じようなテーマを神話レベル - 神々の戦いのなかでおもしろおかしくずっこけモードで描いた映画をこの翌日に見ることになる。ここでも最後に残るのは女の子だった。

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