7.10.2022

[film] 花ちりぬ (1938)

7月2日の土曜日、”Elvis”を見て、”Introduction”を見て、国立映画アーカイブに来て東宝映画特集のなかの『小特集 没後50年 映画監督 石田民三』で見ました。この日のはじめの2本もよかったけどこれは桁外れにすばらしくてびっくりした。 『おせん』も見るんだった..

文学座の作家森本薫による原作・脚本で、演出補助には市川崑の名前がある。声の聞き取りにくいところがあったけど英語字幕のおかげでなんとかなった。英語題は”Fallen Blossoms”。

キャストは全て女性 - 宴会をする客や屋外の男性の声は聞こえてくるが - あの、George Cukor の”The Women” (1939)より一年早い! そして舞台は京都祇園のお茶屋の中と屋根の上? のみ、時は幕末、蛤御門の変 - 元治元年(1864)7月19日の前夜、7月17日から18日にかけてに限定されている、そんなドラマ。

冒頭は金魚鉢を漂う(しかない)金魚たちの姿。これと同じようにどんなにがんばってもお茶屋の外に出て生きることができない女性たち - 芸妓だけでなく女将も燗番もみんな - の姿を描く。

はじめはふつうに宴会しているし芸妓たちはいつものように花火をしたり噂話をしたりしているのだが建物の外が騒がしくなって男の怒声が聞こえたりするようになって、京に潜伏していた長州藩士と新撰組がいよいよ、ということらしい。そうして扉のすぐ向こうで人が斬られる声とか音がしたりして芸妓のおきら(花井蘭子)はかつて相手をした長州藩士が自分を訪ねてきたのかも、って気が気でなくなり、やがてそこの女将で母のとみ(三條利喜江)が新撰組に呼ばれたから、と外に出ていく。それはさっき斬られたかもしれない長州藩士と自分のことを新撰組が疑っているにちがいないから自分かも、というのだがやばくなったらみんなして逃げるように、と告げて母は行ってしまう。それと江戸から逃げてきた(そこにいた男はひょっとして自分を追ってきた?)という種八(水上玲子)という芸妓も中に入ってきて、そうしているうちに外で大砲の音や人々が逃げていく音が聞こえてきて、芸妓たちも外に出る準備を始めて…

呼ばれて外に出て行って戻ってこないとみ、江戸から逃げてここに入ってきた種八、外に出たいけど出てもどうすることもできなさそうなので三味線を弾いたりするしかないおきらたちがいて、ここのお茶屋が世界のほぼすべてで、最後に屋上の物干し台のところに昇ったおきらは遠くであがっている戦の火- 花火でも大文字焼のでもない - を見つめる。

平和な風景が突然に不吉な音や騒ぎでざわざわし始めて、人が出入りしたりしてここから逃げるしかない、となった時にどこにどう逃げたら、逃げてどうなるのかもわからない、そんな金魚鉢の金魚たちの不安と恐怖と悲劇 - どうなるかまでは描かれないので悲劇ではないのかもだけど、その不安と切迫感と諦めと絶望を閉ざされた屋内の移動や階段の昇り降りショットと芸妓たちの表情のなかに描きだす。

当然のように、こないだの芸妓さんの告発を思い起こし、こんなのが大っぴらに「文化」として「大事に」されてきたのだとしたらそんなのなくなって/なくしてしまえ、しかない。慰安婦問題だって根はぜんぶいっしょの男性にとって都合と居心地のよい「ええやないか」の世界でしかないのだな、って改めて。


夜の鳩 (1937)

↑に続けて石田民三の小特集から。原作は武田麟太郎 -『一の酉』による、と。

浅草の小料理屋「たむら」は昔は常連の上客が沢山いたが実権を握る二台目の嫁が方針を変えてからそうではなくなり、むかーしからいるお爺さんがうだうだしていたり、よいネタを仕入れる意味も必要もなくなり、看板娘だったおきよ(竹久千恵子)もはっきりと年齢による衰えを自覚していて、かつてを知る客たちの間での伝説のようなものでしかなくて、妹のおとし(五條貴子)は姉の嘆きを受けとめつつ自分は適当にやってて、有名劇作家の村山(月形龍之介)の誘いも無邪気に受けたりして、おきよの方は誘われたと思ったらその隣にいた野郎に襲われたり、なにもかもあーあー、になっていくのと、おしげ(梅園竜子)はやくざな義父とだらしない母の思惑のまま寿司屋のおやじの二号に売られようとしていたり、町は酉の市で賑わっているようだけど自分の周りはさっぱり、夜の蝶でもないし同じ酉でもただの鳩だよ畜生めぇー、って。

京都のお茶屋ほどの厳格なしきたりや縛りはないものの、ここにも行き場を失っていく水商売の女性たちのそれぞれが描かれている。時代は幕末から太平洋戦争の前夜 - 不安定な時勢に都合よく弾きだされてしまう彼女たち。

『花ちりぬ』にも出ていた林喜美子のお燗番が男女のあれこれとは関係なくずっと隅で座っていてべそかいたりしててなんだかかわいそうだった。 そういう女性たちだっていたのだ、というようなところも含めて、フェミニズム映画としてきちんと位置づけるべきではないか。 そのためにはまず4Kでレストアしよう - 国は期待できないからマーティのとこでやってくれないかしらー。


健康診断の結果とおなじように、選挙の結果が自分の思うようになって幸せになれたことなんて一度だってない。 それでも、こんなでも生きていくしかないのだが、それにしたってこの国には本当に、底の底からうんざり。

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