8.26.2019

[film] Once Upon a Time... in Hollywood (2019)

18日、日曜日のお昼にPicturehouse Centralで見ました。 ここでは雰囲気の35mmかくっきりしゃっきりの4Kデジタルかの2種類の版で上映していて(70mmもどこかでやっているのかしら?)、35mmの方にした。

予告CMでもしつこいくらいに謳われている”The 9th Film by Quentin Tarantino”で、つまり確立されたブランドの新作なんだから見なさいよ、見て当然でしょ、って迫ってくる。

わたしはもともとバイオレンス描写が苦手で、Tarantinoのは特にいつもとっても痛そうなので恐くて、でもそれは彼が映画における痛みや傷の表現・描写を歴史をきちんと踏まえて勉強した成果でもあるのだし、それがあるからこそ最後に悪玉がやられるところで(快感とは呼びたくない)ある種の到達感が得られるのだし、彼が取り上げる題材がそもそも善/悪や快/痛や欲望/復讐の境界を彷徨う個人と組織のせめぎ合いの只中にあり、そこには泣いても笑っても生きるか死ぬかの暴力しかなかった - 歴史は暴力によって作られてきたのだからしょうがない、だからとにかく見ろ、と。

長さは161分、眠くならず長さも感じずに見れたのでおもしろかったのだと思う。 「のだと思う」になってしまうのは、見ながらそれぞれの場面やエピソードや人物像に「これはどこそこにあったあれよ」とか「このキャラは誰それを模したものを誰それにあんなふうに演じさせているのよ」を匂わせる付箋のようなものがいっぱい貼ってあるのを感じて、それらを知っていればもっとおもしろくなること確実なことがわかる、というやや面倒なおもしろ構造になっているためで、だから底の底までこのテーマをわかっておもしろがりたい人は映画秘宝かなんかの攻略特集でも読めばよいのだろうが、そこまでしておもしろがる意味を感じない、というか。自分はそこまで映画を愛していないんだわ。たぶん。

1969年の2月初の数日間とそこからちょうど半年後、8月の数日間に、TV/映画で人気があったものの翳りが見え始めた俳優のRick Dalton (Leonardo DiCaprio)とそのスタントダブルのCliff Booth (Brad Pitt) のふたりが遭遇したこと。メインのエピソードは実際に起こったSharon Tate (Margot Robbie) 事件で、Rickの邸宅は事件があったRoman Polanski邸の隣にあって、つまり。

あの事件をきっかけにあの時代やあの土地の空気感のようなものが変わった、のかもしれないがその少し前からその兆候はこんなところにもあんなところにも既に見受けられ、ていうことは別にあの陰惨な事件が起ころうが起こるまいがハリウッド、というかそこを中心としたポップカルチャーのありようは変わっていく運命にあった - が故の”Once Upon a Time...”という苦みも含めた過去を飲みこんで総括するやり方で、付箋だらけのもどかしさを感じてしまった理由はそこにもある。 時代の動きとかうねりをどのテーマやエピソードを拾いあげてどう表象するのか、正解なんてない世界だし、正解の在処 - 脈みたいのを探るにはそこら中をほじくり返していくしかないし、結局これって誰それの描き方がひどい、とか誰それが出てこないのはおかしい、とかそういう言い合いとか、さすがQT、ていうオタク同士の褒めあいになってしまう。(もちろん、そういう言い合いは楽しいから見た後にやりたい方がいっぱいやっていいの)

他方でこないだの”Apocalypse Now”なんかは、ジャングルの奥- 闇の奥の物語に当時の正気も狂気も含めた(正誤なんてどうでもいい)ありったけをぶちこんでみて、乱暴に”Now”というラベルを貼ってしまう。そうすることで、あの映画で描かれたことは50年前に遠いアジアのどこかで起こった昔話、以上のヤバみと困惑をもたらすのだし、記事によって一瞬参照されるだけのCharles Mansonの生々しさは今現在と連結してどこまでも残っている。

主人公のふたりは始めから(仕事として)誰かを演じている - Leonardo DiCaprioは過去に自身が演じたクラシックなヒーロー像を延々なぞって反復することに焦りと行き詰まりを感じていて、Brad PittはそのLeonardo DiCaprioの被り物を着てアクションをして生計を立てている - そんなフィクションの工事現場で生きることに腹を括ったふたりと、その周辺でそことは別の位相 - 夢と現実の境をらりらり彷徨っているヒッピー/カルト連中の、交通事故みたいな衝突。

ハリウッドというアメリカの夢とか理想とかを映画という織物にして生産する工場が不可避的に抱え込んだ闇とか病とか負債とか、それは映画を通して学ぶことができる/できた世界のありようときれいに繋がっているようで、だからそうだねえ、としか言いようがないし、”Once Upon a Time.. “なのだが、それは円環を描いていてあんま外側に転がっていかない。

で、自分が古いのも新しいのも含めて映画を見にいくのは、ここに描かれたこんなふうな世界がこうあったから、ていうのとは別の理由によるもの、という気がしていて、でもそこはまだあまり掘らなくてもいいかなー、くらいなのでー。(進まない)

でもこの時代のいろんなことを知る入り口としてはとてもよい作品だと思うし、世界の至る所でフェイクとカルトと独裁が蔓延るポスト・トゥルースの時代にこれが作られた理由は、たぶんどこかにあって、それについては50年後に誰かがアナザー ”Once Upon a Time.. “として映画化してくれるに違いない。 それまで世界が保てば、だけどね。

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