6.28.2019

[theatre] Les Damnés

24日、月曜日の晩、Barbican Theatreで見ました。 “The Damned”。

バンドのThe Damnedのライブではなくて、Luchino Viscontiの”The Damned” (1969) - 『地獄に堕ちた勇者ども』 - この邦題さあ…  の舞台化。 演出のIvo van HoveはこれまでViscontiの”Rocco and His Brothers” (1960), “Ludwig” (1973), “Obsession” (1943) -『郵便配達は二度ベルを鳴らす』– Jude Law主演のこれは2017年にBarbicanで見た – を舞台化してきていて、これが4つめとなる。

演じるのはComédie-Françaiseで、2016年のアヴィニョン演劇祭で初演されたもの。 ロンドンに彼らが来るのは20年ぶりだって。 Comédie-Françaiseは96年にBAMで見て以来の。

むきだしでがらんと殺風景なステージは後ろに大きなスクリーンがあって、全体にリハーサルスペースのよう(Ivo van Hoveのいつもの)で、少し高くなった左側には衣装コーナーとか化粧台とか長椅子があって、同様に少し高くなった右側には蓋の開いた棺桶が6つ、ステージ中央の一番前には骨壺と蒸気の笛(誰かが亡くなるたびに遺灰がここにくべられてピィーって鳴り響く)があり、最初に登場人物たち、彼らをライブカメラでシューティングする人たちも含めて軍隊のように勢揃いする。背後では耳奥を圧する重轟音が。

背後のスクリーンには時折30年代のドイツの世相や情景を映したフィルムが投影され、そこにステージ上で俳優たちが演技する姿をライブカメラで捕えた映像が被さり、さらにこれにAR的なエフェクトも加わり、時折カメラは俳優たちだけでなく客席にいる我々も映しだす。 上映言語はほぼフランス語なのでスクリーンの上には字幕スクリーンもあり、客席の我々は俳優の演技、スクリーン、字幕、少なくともこれらを追うし、ステージ上の俳優は客席に向かう演技とカメラに向かう演技のふたつを選り分けたり慌ただしい。他にも本来ナチス台頭期のドイツの一族のドラマをフランス人俳優たちがフランス語で演じるとか、半狂乱のSophieが客席の上の方から劇場の外(まだ明るい)にまで飛びだしていくところを延々追っかけるカメラとか、舞台のありようを異化して脱臼させるいつもの仕掛けは、こないだの”All About Eve”よりも”Obsession”よりも派手で大掛かりなかんじ。

ドラマはナチスドイツの勢いが増してきた頃、鉄鋼で財をなした富豪のEssenbeck家が家の存続と権益の確保のために(嫌々ながら or 企みをもって)親族の深いところまでナチスとの関わりを強めていって、結果としてひとりまたひとりと裏切りや密告や脅しなどなどにより圧殺、自壊、自滅していくどろどろをノンストップで描いていく。 特に女帝として一族を操るSophie (Elsa Lepoivre)の底なしの情念と堕ちるところまで堕ちていく息子のMartin (Christophe Montenez)の悶えっぷりあがきっぷりは凄まじく、最後にMartinは血まみれ素っ裸になって一族全員の遺灰を頭からかぶって仁王立ち、機関銃をこちらに向けてくる。

幕間はないのだがストーリー区切りの手前で処刑されたり自殺したりで棺桶に入る人々は、入るときはおとなしく死んでいるのだが、その蓋が閉じられて笛が鳴ったあと、しばらく棺桶のなかで苦悶し絶叫する(当然誰にも聞こえない)さまが棺桶内カメラで映しだされて恐ろしいったらない。それがライブであることも。

あとは長いナイフの夜事件での男たちの裸踊りとか、フィルム上の焚書のシーンで読みあげられる作家たちの名前 - ジィド、プルースト、ジョイス、ドストエフスキー、トルストイ、カフカ、ブレヒト、ベンヤミン、等々(他にもいっぱい、好きな作家ばかり)とか、全体として凄惨で情けも救いもどこにもなくて、身も凍るような場面の数々も、この舞台がまだリハーサル現場のような建てつけであることによって、かろうじて救われている。他方でこれを「リハーサル」であり、だから「救われている」とする根拠なんてじつはどこにもありゃしない、と。

独裁・寡頭化と密室政治が横行して気がつけば棺桶の傍とか自分が掘った穴の底にいて、手に取るようにわかるレミングの、破滅の構図、って歴史絵巻でもなんでもなく、いまのにっぽんそのものだわ、って。 われわれはEssenbeck家じゃないから、ってみんな言うかもだけど、その時点でもうしんでるんだから。

Comédie-Françaiseの役者さんたちは、ほんとにすごい。字幕を追わなくても声の出し方や抑揚でそれがどこに向かう誰の(虚偽の、真の)言葉なのかがすぐにわかるし、それに反射する動作の速くて滑らかなこと、そのエネルギーの総量ときたら。

音楽はシュトラウスとか当時のがかかったりする反対側で、Rammsteinがばりばりの大音量で、ここで鳴らなくてどうするの勢いでぶちまけられる。Comédie-FrançaiseでRammstein、なんてかっこよいことだろう。

また見たい、けどもう終わっちゃったのか。

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