3.18.2018

[theatre] Long Day's Journey into Night

書くの忘れていたやつ。
2月22日、木曜日の晩、地下鉄のLeicester Squareの駅上にあるWyndham's Theatreで見ました。
(たまに地下鉄のごとごとが聞こえたりする)
上演時間は休憩一回いれて3時間20分。

Eugene O'Neill の1956年作の舞台、設定は1912年のアメリカ。
演出はRichard Eyre。キャストはJames: Jeremy Irons、Mary: Lesley Manville、Jamie: Rory Keenan、Edmund: Matthew Beard。

2003年にBroadwayのPlymouth Theatreで見たときは James: Brian Dennehy、Mary: Vanessa Redgrave、Jamie: Philip Seymour Hoffman、Edmund: Robert Sean Leonardで、それはそれはすばらしくて、演劇も見れるのは見たほうがいいかも、て思うようになったのはこのあたりから。

アメリカ人(家族)のドラマを英国人俳優たちが演じる、ということについては、ここの場合はあまり関係ない気がした。

舞台は一家のリビングルーム(のみ)で、真ん中にテーブルと椅子、右手にソファ、左手に天井までの大きな本棚、奥に寝室へと続く階段、大きな窓があるので光は十分に入ってきそうなのにランプの光が足りない、と家族はいう。

役者だった頃の過去の栄華にすがって生きるしかない父James、自分がしっかり支えて育ててきた家族を誇りながらも裏では不眠症とモルヒネ中毒でぼろぼろの母Mary、聡明なのに過剰な期待をかけられすぎて崩壊状態、アル中寸前の長男Jamie、病弱で喘息もちなのに家族の心配ばかりしている次男Edmund。全員が夢の中では幸せな理想の家族を抱えて生きているのに現実では各自それぞれにぼろぼろの問題だらけで、朝の光のなかにいるのか夜の闇に向かおうとしているのかよくわからない、理想と現実のどちらが先に転んでこうなったのかわからない、夜までの長い時間がJourneyを形づくったのか、果てのないJourneyが夜を求めたのかわからないし知りたくもないし。

現代のホームドラマに見られるあらゆるバリエーションとその原型を示しつつ、個々のエピソードや会話の交錯はこの4人でしかありえないような狂いようとか修羅場とかを見せてくれる。各自のどうしようもない弱さとか傷とかをそれぞれにどうしようもないところを抱えた連中が寄ってたかってどうにかしようしたり放置したりしようとするけどやっぱしどうにもならんよね、ていう、それがJourneyなの。 最後には長い夜が明けたような気がするのだが、実は何ひとつ解決していないし誰も救われていない、その状態を維持するために延々と続いていく家族という詐術を底の底まで見せることで、愛と呼べそうな何かが浮かびあがってくる気がする不思議。 この舞台は誰の演出でも誰の出演でも中味がいつも常に異なって見えるような気が、何度でも繰り返し見ることができる、そういう普遍性はあるかも。昔の(戦前の、とか、昭和の、とか)家族のかんじが全くしない。

2003年に見た舞台で圧倒的だったのは、Philip Seymour Hoffmanだったし、映画版ではKatharine Hepburnだったし(たしか)。今回のでいうと、Lesley Manvilleが際立ってすばらしいの。 彼女が休憩暗転前の最後につぶやく「さみしいよ..」て自身を抱きしめていうところと、それでも終盤、最後の最後にエモの奔流でもって家族をまるめこんで救われたかのように見せてしまう紙一重の繊細さと残酷さはとてつもないものがあった。 “Phantom Thread”でも、常に主人公の傍にいる役が彼女じゃなかったら、あのストーリーは成立しなかったのではないかと思うし。 声が透き通っていて素敵なのよね。

この舞台、これからもいろんな俳優さんが演じていくことになるのだろうけど、できるだけ追っていきたいな、て改めておもった。

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